流転有情(二)

 

 このファンレターに感動した雷蔵は、つぎのようなやさしいなぐさめと、はげましの返事を早速その不幸な少女に出したのだった。

 「僕は、吾市の役をやるため、ドモリの学校へゆき、その心理についていろいろと研究をし、また教えられもしました。この役を演じて、僕ははじめてドモリの人々の、追いつめられた気持を知りました。

 僕がドモリのことを教えていただいた先生も、もとはドモリだったそうですが、今では普通の人と少しも変りません。ドモリは不治のものでなく、必ずなおるということをあなたはよく心にとめて、出来るかぎり、その機会を求めて下さい。決してひねくれたりせず、胸をはって、世の中を堂々と歩いていって下さい。

 もし、僕にご相談でもしたいというお友達でもあれば、僕は出来得るかぎりのことをしたいと思います。ドモリの方の苦しみを知った僕が、不幸な友達に協力するのは当然ですから。

 どうか、今後も明るく、元気に生き抜いて下さい」

 この返事は雷蔵の胸のうちからほとばしり出た偽らない真情であった。人類愛とでもいうべきである。

 このやさしい今を時めく青年スターからの心情あふれる返事に接し、不幸な少女は、いや同じ不幸に泣く沢山の友達は、どんなに喜んだことであろう。

 さてここで、市川雷蔵の生い立ちの一端にふれてみることにしよう。彼はあまりにも数奇な運命の下に生れた子である。

 彼は、昭和六年八月二十九日、京都市中京区西木屋町に生れた。

 彼は、「わたしには三人の母がある」と自らいっているが、その通りで、生みの母と育ての母、そして貰われた先の養母の三人である。そして、このことは、彼が十九歳の春まで夢にも知らなかったのである。

 十九歳の春、正式に梨園の名門市川寿海の養子となる時、大阪中之島の家庭裁判所で、はじめて戸籍をみて、市川九団次の養子となっているのを発見、そこで、今まで実の父は九団次、生みの母は九団次の妻で、今は亡き祇園の名花、花蝶こと亀崎ハナさんであるとばかり信じていたのであった。

 それが、自分には別に本当の父もあり、母もあることを知って、彼は人知れずなやんだが、もちろん今日にいたるまで、彼はその実の父母の顔も知らない。面影を追う一枚の写真すら見たことがないのである。

 彼の実母は、夫、すなわち雷蔵の父なる人に死別し、実家に帰り、そこで雷蔵を生み落とした。それを哀れに思った九団次の妻の亀崎ハナさんが、幸い九団次との間に子がないところから、生れ落ちると自分の実子として引き取り、わが子として育てたのであった。このハナさんは、実の母の遠縁に当っていたからである。

 そのハナさんも今は亡く、してみれば、雷蔵の血縁はこの世には一人もなく、本当に天涯の孤児なのである。