絢爛たる作品群
市川雷蔵は、昭和二十九年の『花の白虎隊』から、昭和四十四年の『博徒一代血祭り不動』まで百五十三本の映画に出演している。
武智歌舞伎で注目され、市川寿海の養子として関西歌舞伎の若手有望株の雷蔵が、何故歌舞伎を捨てて映画界に身を投じたのか。そこには様々な事情が存在しただろう。しかし、一番強いのは、雷蔵の因襲と権威への反抗と、新しい世界への挑戦だったのではなかろうか。
歌舞伎で鍛えられた演技力に加え、雷蔵には生まれながらに身に備わった清潔感ろ悲壮感がある。彼ほど多彩なドラマを演じ、それぞれを的確に表現出来た俳優がいただろうか。明るさの裏にひそむ虚無、強さの底にはりついている絶望感、甘さと表裏する冷徹、そして彼は、貪欲なまでに新しい獲物を追い求めるハンターであった。
雷蔵ほど周囲に恵まれた俳優も珍しい。溝口健二、衣笠貞之助、伊藤大輔、市川崑、吉村公三郎、森一生、山本薩夫、増村保造等の巨匠たち。京都撮影所の同志とも云える三隅研次、田中徳三、池広一夫・・・、凄い監督と全盛期の大映の秀れたスタッフの共同作業の中で、雷蔵の才能はより絢爛と花ひらいたのである。
しかし、雷蔵は大スタアの座に甘んじなかった。例えば、彼は自分の後援会雑誌に次のような文章を載せている。「私自身で私の眠狂四郎を批評するとしたら残念ながらこの第一作は失敗だったといわないわけにはまいりません。試写をみて私は驚きました。狂四郎という人物を特徴づけている虚無的なものが全然出ていないのです。映画の中の狂四郎は何か妙に明るく健康的でそれは狂四郎のイメージと全く相反したものでした。これまでの私にたくまずして出ていた虚無感や孤独感といった一種のかげりがいまや私の肉体的、精神的条件の中からほとんど姿を消していたのに私ははじめて気がついてハッとしました。このことはまことに迂闊千万な次第ですが、その反面私自身が家庭を持って一種の安らぎ、あるいは充実感といったものが無意識のうちに、にじみ出ている結果だと知ることができました。もちろん演技者としては、これは弁解になりませんし、そんなことではいけません。この次こそは厳重な注意の目をくばりながら狂四郎のやくづくりを大きな課題としなければならぬと戒心しています。・・・・」
素顔の雷蔵
スクリーンの上では颯爽とした二枚目だった雷蔵も、普段の恰好で街を歩くとほとんど気付く人はいない。初めてのバーなどに行くと、ホステスが怪訝な顔をする。私たちは彼をA税務署やB銀行の人だと紹介してはふざけ合ったり、京橋から銀座四丁目まで二人で歩きながら、すれ違った女の子の中で何人が雷蔵
だと気付くか賭けをしたこともある。
雷蔵の年来の企画の中に「海軍兵学校もの」があった。兵学校に学び、やがて戦場に赴く一人の若者を通して、日本の歴史と青春を描くのが狙いだった。雷蔵と私は阿川弘之氏に御意見を聞くことにし、講談社の榎本昌治氏に阿川邸へ同行してもらった。その帰り、お二人を送った後、私は一人新宿へ向った。するとハイヤーの運転手さんが、「さっき目白で降りた方はどなたですか」と聞く。私はこの際悪戯は止めて正直に答えた。途端運転手は振り返って私を睨んだ。「何故もっと早く教えてくれなかったんです」「私も、うちのカミさんも娘も雷蔵さんの大ファンなんです」「サインして貰えばみんな喜んだのに」とか、私の方を振り返り振り返りぐちり始めた。「サインはいつか貰って来ますから、お願いだけど前を向いて運転して下さいよ」と、はらはらしながらも笑がこみ上げて来た。
この件は後日雷蔵に話した。「おかしいですな、あの車はうちで頼んだんですよ」と雷蔵。「変ですね」と云いながら私ははっと気がついた。「あなたは太田吉哉で頼んだでしょう。運転手はそれが市川雷蔵とはわからなかったんですよ」