生まれながらの役者

故人には、拙作のいくつかを映画化されたが、個人的につき合ったことはない。他の多くのファン同様、私もスクリーンでしかその魅力に接しない。

ただ、一度だけ、私用で太秦の撮影所へ出向いたおり、偶然、背広姿の雷蔵君が居合わせ、事務所でしばらく雑談をした。眼鏡をかけていたように思う。

その時の印象では、役者というより、非常にマジメな、地味で誠実で自分の仕事に誇りと情熱をそそぐ好青年という感じがし、個人的に何人か放埓な私生活のスターを知っているだけに、私は役者にしておくには惜しいなとふと思ったのを忘れない。

役者をそしる意味で言うのでは毛頭ないし、雷蔵君がこの雑談で話していたことも、すべていい映画を作るか、時代劇の将来はどうあるべきか、どういう役柄の人間が(現代劇と時代劇たるとを問わず)大衆に要望されているか・・・・・要するに映画俳優たるおのれへの信念、映画人の《理想像》とも言うべきもんへの吐露だった。惜しいどころか、彼こそは生まれながらの役者であり、ほかの仕事には目もくれなんだろう。それはわかっているのだが、理想像を語る彼の口吻に何か純粋すぎるものを私は受取った。純粋すぎるだけに、傷つくことも多いだろう、くるしむだろう、こういうヒタむきな青年に傷つかせるのは、惜しいな、と思った。

まだ、夫人との結婚前だったと思う。

−これ以後、もう一度、何となく撮影所に遊びに行ったとき、この時も偶然セット入り前の雷蔵君と顔を合せ、一緒の写真を撮った。私の伴っていた綺麗どころが雷蔵君のファンで是非一緒に写りたいと言ったからである。何という映画に主役のものか私には分からないが、気持ちよく彼は並んでカメラにおさまってくれた。

余談ながら故人には女性への、かなりハッキリした好みがあったように思う。拙作『薄桜記』『陽気な殿様』の映画化のさい、それぞれ新人スターを相手役に彼は抜擢しているが、その顔立に共通なものがあった。いわゆるお嬢さま育ちで、映画女優の臭みのない、しかも淑やかで日本風でエレガントな女性である。坪内ミキ子さんがそうだ。彼女は、『陽気な殿様』で映画界入りをしたように記憶するが、初出演だから当然、芸そのものは未熟で雷蔵君は、ずいぶんそんな相手をいたわって芝居をしているのが、スクリーンの上でもわかり、観ていても頬笑えましかった。

芸は未熟でも、初出演の彼女のういういしさはかけがえのないものだったし、そういう坪内嬢の人がらがもつ初々しさを、映画界に注入しようとする理想家雷蔵君の熱情を、ほゝえましいと私はみたのである。彼が結婚の時、新郎新婦の写真を偶然、知人宅で見る機会があったが、初々しい花嫁の優雅な感じは、主演する作品に新人を起用した俳優市川雷蔵の好みと共通のようで、これ又ほゝえましかったのをおぼえている。

彼だけは長生きをさせ真摯なその芸の円熟を見たかった。まことに惜しい俳優を日本映画界はうしなった。哀惜に耐えない、心からの冥福を祈りたい。(「侍市川雷蔵・その人と芸」より)