一、
会社はスターに対して、一個の商品であること以外の何物も望んでいない。しかしスターは大なり小なり、よき演技者たらんとして、自分の演技欲を満足させ得るような役処への期待をもっている。たまたまその二つのものが一致する場合もないではないが、大方の場合はそうは都合よくゆかないものだ。スターといわれる人々はこの矛盾をどんな風に割切って考えているのであろうか。
仮にわれわれが、そのひとたちに「どんなものを撮りたいですか」と質問する。「やはりファンの方に満足していただけるようなものを撮りたいですね。しかしそれだけではつまらないから、年に一本か二本は、これというまともなものを作りたいですよ」という。表現のニュアンスこそちがえ、たいていこんな答え方をされるのである。判ったようで判らない返事だが、それでも何となくお互いに判ったような顔ですませてしまう。
だが私は先ずこうしたあいまいな表現からしてぶっこわす必要があると思う。なぜ「ファンに満足していただける作品」だけではつまらないのか。「これというもの」「まともな作品」というのは一体どんな作品なのか。この間の言葉のあいまいさをもうすこし解明してゆけば多分こういうことになるのであろう。会社はスターを一個の商品と思っている。だから彼らが出演する作品は「観客に満足していただける作品」でありさえすればそれで十分なので、あえて作品の質の善悪を問わない。ところが一方よき演技者たらんとするスターの間では、その当てがいぶちの企画には満足出来ないことが多い。それに対する抵抗が「これというもの」「まともな作品」という抽象的な表現となって現われてくるのである。
しかし実際問題としては、いくらスターがそうしてささやかな抵抗を示しても、会社が受つけてくれなくては仕方がない。会社は自分達の力で彼なり彼女なりをスターに育てあげたというテコでも動かない信念をもっている。だからスターが会社を辞めたいとか、他社の作品に出たいとか、その会社の不利益になり、他社に利益するような言葉をほのめかすまでは、会社はスターの存在なんかはまるで意識もしていないといってよい。スターは会社が「観客に満足していただける」と考える企画に黙って出演していればよいという考え方だ。「これというもの」「まともな作品」。何を寝言みたいなことを言っているんだという。口に出して言わないまでもハラのなかではそう考えている。会社の企画方針にまでクチバシをいれるのは生意気だゾと言われかねない。
だからスターたるものもまた、いつまでも寝言みたいなことを言っておっても始まらないのである。「もちろんそれが商売だから会社から与えられる企画は何でもやりますよ。しかしそれだけではつまらないから、時には自分でやりたい役や自分の持っていった企画でも撮っていただきましょう」。こういえばずっと問題の焦点がはっきりしてくるのではあるまいか。といってもスターにもピンからキリまである。実力のあるスターとそうではないスターがある。言うだけで実行されなくては同じことである。だからそれだけの実力のないものは黙ってその力を蓄えて、時期をまつよりない。しかし時には、他社の作品にも出るようなゼスチュアを示す必要もあるだろう。また、若いプロデューサーやライターや監督を動かして、彼らと協力して新しい役柄を開拓してゆく努力が必要であろう。要するに、スターはもっと政治性をもってよく、またもつ必要があるというのが、この文章の一つの序論である。
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