雷蔵哀悼−悲しくなつかしい写し絵−
市川雷蔵の一周忌が近い。過日、その雷蔵を追悼する映画会が、京都音協の主催で行なわれた。「ぼんち」と「炎上」の二本立で。今月にももう一度「華岡清洲の妻」と「破戒」を上映するそうである。だれがこのような奇特な発案をしたのか知らないが、私などまで故人追善の余慶にあずかってありがたいとおもった。
「ぼんち」も「炎上」もそうした会場のふん囲気のなかでみると一層親身になつかしいがすでに雷蔵そのひとがこの世に亡いとおもえば、スクリーンのなかで泣き笑いの人生を演じて眼前にありありと生きている故人の“写し絵”は、なつかしさと同時にやはり悲しい。
「ぼんち」は名手宮川一夫のカメラで封切り当時は、その鮮烈な色彩感覚に目を見はったものだが、いまはそれが古びた仏画のように全体に色がさめている。そのさめた色調がまた観るもののこころを切なくするのである。
雷蔵は「濡れ髪」シリーズなど、ちょっと二枚目半がかった役どころも得意としていたが「ぼんち」でも船場の旧家のぼんち役を愛敬のある二枚目半のソフトムードで演じている。そのためにぼんちではあっても、その底にひめている大阪商人らしいきびしさ、シンの強さ、変わり身の早さなどが逆に光ってみえる。女にハダをゆるしても、こころまではゆるさない、そんなぼんちの計算のある人生がきわだつ。
この女系家族の旧家の、見事に崩壊してゆくプロセスを辛らつにスケッチしてみせた市川崑の才気もさすがだが、それをおもしろ笑いのなかにまぶしてみせたのは、雷蔵ぼんちの愛敬のよさであった。雷蔵の明快なセリフは定評のあるところだが「ぼんち」では相手のセリフを受けるとき、一呼吸、間をはずすようにしてのんびりとしゃべる。そんなところにもたまらないいい味があった。
「ぼんち」は昭和三十五年度の製作で「炎上」はそれより二年前の三十三年度の製作だが「炎上」の吾一青年は「ぼんち」にくらべてずっと若く稚くみえる。題材の性質もちがうが、やはり「炎上」は雷蔵にとっては一種の“若描き”であったようだ。言語障害というひけめに加えて、愛への渇望と暗い青春の痛手になやむこの主人公の青春像を、雷蔵は気負って演じている。だからいくらか硬さを感じる。だがそれだけに鋭気に満ちているともいえる。言語障害者に共通する勢いこんだようなセリフまわしにもくふうが見られ、常に半ば口をあけたポカンとした表情に、吾一の空腹感を表現していてするどい。
こうした対照的な二作品をならべてみると、雷蔵という人は、作品次第でどんな色にも染まり得る、たいへんフレキシビリティーのある演技者であったとつくづくおもう。惜しいひとを死なせた。(滝沢一、昭和45年7月5日「えんぴつ無頼」より)