-奇妙なバランスを保つ-
正反対の陰陽
「スターの扱いには、ほんまに泣かされるわ。泣く子と何とかには・・・の心境やな」とは、ある映画宣伝マンの述懐。早い話がポスターの名前の並び方一つで、役を降りたなどという例もあるほど、映画スターの自意識は強いものだ。
そこで、一つのケース。同じ年に生れ、同じ作品で、同時にスタートした二人が、同じ撮影所で、スターへの戦いを続けてきた結果は、どんな現象を呼び起こしているか?もはや伝統的にファンが信じ込まされている、大映の市川雷蔵と勝新太郎のライバル関係がそれだ。
大映京都撮影所に、雷蔵、勝どちらか一方のインタビューを申し込んだとしよう。すると、ほとんどの場合、もう一方にも“会わ”される。しかも、時間は同じくらい。そして、二人が直接顔を会わせることのないよう、万難を排してやりくりされる。特に、インタビューの内容が限定されない限りは、二人の意見を公平に拝聴させられるわけだ。現在の二人の“力関係”は、こんなムードで、一応はバランスを保っているように見える。
では、スタートの二人はどうだっただろうか。二十九年に『花の白虎隊』で同時にデビュー。当時、大映は長谷川一夫につぐ、“二枚目スター”を求めて、やっきになっていた。二人ともその期待を荷って、ほとんど同時に大映入りしたのだが、十五歳のとき市川莚蔵の芸名で大阪歌舞伎に初舞台を踏み、大映入り前、すでに市川寿海の養子となって、市川雷蔵を襲名していた美男子と、長唄杵屋勝東治の次男坊で、単なる名取(勝丸)のあばれん坊とでは、だれの目にもハンデは明らか。デビュー作でも主演は雷蔵だった。その後、ある時期までこの差は続く。
「扱いに差があったことは事実で、たとえば、吉川英治の『新・平家物語』の映画化権を雷蔵のためにとったとき、こみで買った『かんかん虫は唄う』を勝にやらせたりした。雷蔵がカラーなら勝は白黒。そんな感じだったね」(中泉多摩川撮影所長=前京都撮影所長)
「二枚目としては雷蔵ができ上がった感じ。勝は宝塚の男役のようで、ピッタリこなかった」(船橋多摩川撮影所次長=元京都撮影所宣伝課長)
ともに、スタートから成長期をつぶさに見てきた関係者の言葉だ。
ある時期とは云うまでもなく“逆転劇”。三十五年の『不知火検校』をきっかけに、二枚目の仮面をかなぐり捨てた勝は、三十六年からの『悪名』シリーズ、三十七年からの『座頭市』シリーズで、大映の救世主となった。
「三十六年までは、営業部のきらわれ者だったのが、いまでは完全に逆で、雷蔵の作品も勝のものといっしょならOKということです」大映のある館主の言葉はおそらく事実だろう。何しろ前記映画シリーズに、新シリーズ、単発を加え、一本平均一億の興収をあげているのだから。
振り返って雷蔵はどうか?
「大当たりしたものはない。大映そのものが下降線だった事実から、会社に対する功績では問題なく勝でしょう」(船橋次長)
現在、二人は大映を支える二本柱と奉られている。ギャラもほとんど変らないという。
「仕事ではライバルだが、二人とも仲はよいはず。皆さんよく知っているように、雷蔵は頭が鋭く、勝は活力に優れ性格は正反対の陰陽です」(中原所長)
陰陽相和して形を成すのが大映にとって好都合なのは確かだろう。大人の世界に入り組んだ平凡な打算が、二人自身にも周囲にもある。かくして奇妙なバランスは保たれる。
ここで二人の言葉。
雷蔵 「勝ちゃんのキャラクターは、年を取っても通用する強さだ。ボクの場合は二枚目の“永遠性”を何とかしなければならない苦しさがある。ボクが大映のリーダーシップをとっているように思われているが、あくまで映画づくりの素朴な感謝の発露にすぎない」
勝 「不遇時代に雷ちゃんを見返そうと思ったかって?とんでもない。あんときゃ、しゃくにさわって飲み回ったよ。雷ちゃんは飲むとすごく強いが、ハラを割らないね。いつだったか、ビールを飲んでいたから、いたずらをして、すごく強い酒を入れてやった。すると相手も気づいて、そっとオレのブランデーに強烈なやつを混ぜやがった。つまり、両方とも相手がダウンすると思ったわけだけど、結局共倒れになったな」
二本の柱の一本が折れたとき。大映の屋台骨ははたして崩れ去るかどうか?このバランスは当分続きそうな気配だ。
(66年スポーツ新聞から)