『ハワイ旅行記』
観光の国ハワイ
新年を、常夏の国ハワイで迎えるなど、考えてみるだけでも愉快なこと、それが今年実現した。日本の冬が、ここ数年暖かいといっても、そこは、春夏秋冬の日本と、常夏のハワイとのちがい、ホノルルの飛行場には、カッと照りつける陽光があった。その陽光の下で、ウクレレとフラダンス、そしてレイ、キッス。観光国ハワイの入口での歓迎風景である。
ハワイの主要産業は、サトウ、パイナップルなどをあげることが出来るが、なんといっても、観光都市で、年間、観光客の落していく金額は莫大なものがある。観光都市であるだけに、夏の陽に浮きだされた街並みの美しさは、さすがであった。それに道路がいい。道巾も広くてきれいで、そこを、たくさんの自動車が規則正しく走っている。ハワイでは、二人に一台の自動車を持っているという。それだけの車が走っていてさえ、道路の真中の白線を境に、無理な追い越しをするような車などは、一台も見うけられない。同じ観光国日本の入口、羽田飛行場から東京までの道が、その良し悪しもそうだけれども、車の走り方の乱雑さはお話にならない。
ホノルル市には路面電車(都電、市電のたぐい)は走っていない。何年か前までは走っていたのだが、都市計画で、路面電車すべてバスにきりかえられている。そのおかげで道巾も広く使えるし、うんと美観を増したという。それが日本ではどうか。いまだに、都市計画はなされていない。ガタゴトと走る市電で狭まれた道に、自動車やバスがひしめきあっている。はじめてハワイを訪れた私の目にうつったそんな風景から、どうして日本では都市計画が行われないのか、奇異な感じである。国民の税金を使って、たびたび外遊する議員団は、いったい外国の、何を見てくるのだろう。見てきた何を、日本の政治に反映さしているのだろう。
ハワイの日本ブーム
ハワイに移住した日本人、つまり一世も、移民七十周年を迎える今日では、三世、四世の代になっている。日系米人が多いという理由からだけではあるまいが、ホノルルの日本ブームは相当なものであった。
日本映画は、市内の五館で常時、上映されていて、なかでも、時代劇が圧倒的に人気があり、それが、日系米人だけに限らず、その他の外国人までが、日本のチャンバラを喜んでいるなど、愉快なことであった。
白木屋百貨店の出店があたらしくできたし、日本料理をたべさせる料亭が二軒もある。白木屋では、純日本風なものがよく売れているらしく、例えば、仏壇の金の花とか、房だとか、長火鉢、塗のお箸などなど、なんでも買って行き、長火鉢は植木鉢に、塗のお箸は女性の髪飾りになっていた。出雲大社と稲荷神社が祭られてあって、お賽銭を入れるとちゃんとお祓いもしてくれるなど、日本とちっとも変らない。元旦に、この二社に初詣をしたのだが、稲荷神社の赤色にはびっくりした。日本の稲荷神社とは、似ても似つかない。なんとも形容できない色彩で、強いて云えばマッカッカである。ナイトクラブでは、日本から招かれた芸能人が、二、三組、フロアショウをやっていたりで、ホノルルのいたるところに日本がある。
このように、新しく立州して、アメリカ合衆国の一州になったハワイの首都ホノルルで日本が宣伝されている。それなのに、これを素直によろこべないものが、ホノルルの日本にあることを私は感じた。二軒の日本風料亭、「ミヤコ」と「かんらく」は、建物はもちろん純日本風だし、経営者も日系米人である。「ミヤコ」より規模の大きい「かんらく」では、日本の料理を喰べさせる他に、サービスまでが純日本風で、客席には、仲居さんが待ってくれる。けばけばしい訪問着に厚化粧の自称山本富士子、木暮実千代の仲居さんが、飲めぬ酒を無理に注ぎ、注文もしない料理を寄せてくれる。なんともわずらわしいことなのだが、これらの仲居さんのほとんどが戦後日本から渡っていった、戦争の暗い影を背負ったひとびとなのである。日本に駐留した米人と結婚して渡米し、生活に破れた人や、稼いで、アメリカ本土の夫のもとへ帰る人など、戦争が生んだ悲喜劇がここにもあった。近くの宴席からは、日本で一年も前に流行ったような流行歌を唄う声が聞こえたり、ハワイの日本の中に身を置いていて、すこしも華やいだ気持ちになれなかった。
ナイトクラブ“オエシス”(オアシスの意)では、日本ショーが人気を呼んで、どのテーブルも満員の盛況で、百五十人は入っていたろうと思われる。ここの経営者は、市長選挙にもうって出たほどの有力者で、日本ブームにのって儲けたお返しでもあるまいが、日本名まで持っている日本贔負派である。半年から一年の契約でやってくる日本ショーの芸能人は、おそらく日本では二流以下の人なのだろうと考えられる。私が見たショーの雰囲気からも、一流は来るまいと思った。ショーの構成は、女ばかり三、四人のグループ、男二人でやるもの、そしてヌードショーと、この三つだったが、そのいずれもが、酔客を喜ばせるだけの、故意に歪めた日本の姿を見せていたことは、不愉快の一語に尽きるものがあった。
女ばかりのグループは、芸者スタイルで、“お祭佐七”や“人生劇場”をアレンジしたようなものを見せていたが、男二人のチームは一人が侠客に、他が女形に扮していた。侠客になった方は、二挺拳銃よろしく、両腰に刀をはさんでのチャンバラに、本人がいるとも知らず、これが市川雷蔵の立ち廻りの型である、これは大川橋蔵の型とやっているのだから、そんなでたらめを見せられるこっちはまったくの冷や汗ものである。女形にしても本来のものには、神秘的な良さがあるはずでそれを、グロに見せて場当たりの笑いをよぶなど、いくら一年間で百万円は稼げるにしても情けないものだ。
世界各地で、日本ブームが起っていることは、いろいろとわが国にも紹介されているけれども、それらの全てが、はたして正しい日本を伝えているのだろうか。いつだったか、外国の教科書の日本を紹介するさし絵が、とんでもない誤りを犯しているという記事を読んだことがあるが、それは外国人が犯した誤りとしてまだしも容認できても、日本人が外国に出向いていって、日本を紹介するのに、平気でそんな破廉恥なことをやっていいのだろうか。旅の恥はかきすてとばかり、日本から遠くはなれた外国でのことだから、どんなことをしてもいいなんて考えは、たいへんな誤りである。世界はどんどん狭くなって、昨日の外国との距離感覚は、今日には通用しないのだから。
ハワイの正月
どうも不愉快なことばかりを書いてしまったので、このへんで、はじめて迎えた外国でのお正月のことにふれてみよう。羽田を三十日の夜半、十一時十五分に離陸して、日付け変更線のために、ハワイのホノルル着が同じ三十日の午後の二時。正月四日までのホノルル滞在の宿舎は、同市一流のロイヤルハワイアンホテルだった。伝統もあり、品格もあって、一見スペイン風なこの建物では、毎年大晦日の夜は、宿泊客や、土地の有名人らが大ホールに集まって、盛大なパーティが開かれている。このパーティには、女性はイヴニングドレスを、そして男性はタキシードを着用しなくてはならない。
ハワイ到着早々買い求めたタキシードを着用におよんで、そのパーティに出席したわけだが、ここにその写真を掲載できないのがなんとも残念でならない。もしも写真を見てもらえば、雷蔵のやつ、ちょんまげ姿だけでなく、タキシードを着せてもなかなかイカスじゃなかと思っていただけること、請合いなんだが・・・・。
その夜は、さしもの大ホールも超満員で、聞けば千五百人は集まっているというのだから、ひじょうな盛会である。九時半からは、ホールの電燈はすべて消されて、机に置かれたローソクの灯だけが、なんともいえない雰囲気をかもしだしている。人々は、おもちゃの帽子をかぶって、いろんな種類の鳴物でたいへんなさわぎ方をする。十二時になると、蛍の光の大合唱、そしてポン、ポンと抜かれるシャンパンで、口々に「ハッピーニューイヤー」と、新年を祝って乾杯するのだ。
一方、街の中では、花火や爆竹がひっきりなしに鳴り、自動車の警笛をおもしろがって鳴らしているものがいたり、理屈ぬきで、新しい年を祝っている。この夜半のお祭さわぎは、十八才未満の未成年が花火爆竹類を使用することを禁止していて、警官がまわっているのだけれども、警官が歩いているところではやっていないだけ、向うへ行ってしまうと、また、バンバンとやっている。そのスモークで、ホノルル全体が霧につつまれたようにけむってしまうくらいで、私もいっしょにさわいでいたかったのだけれど、一日からの、この旅行の主目的である、国際劇場での実演を控えているので、早く床についた。それでも、二時すぎまで、騒音のおかげで眠れなかったくらいである。
元旦は、いつもなら、寒さで身がしまっておのずから厳粛な気持ちで、雑煮を祝うのだが、そこは常夏のハワイのこと。陽光のふりそそぐ“ミヤコ”のテラスで、ホノルルに滞在中の日本のひとびとと雑煮を祝った。その後、日本領事館で、国旗を前に、君が代を斉唱した。何年かぶりかで唄った国歌がひどく印象深かったものである。
ハワイの後援会
正月の三日間、私がショーをした国際劇場は、大映映画の封切館で、他の日本映画封切館にはない、広い駐車場を持った定員千五十人の立派な劇場である。外国では、どこでもそうなのだが、法律が定員以上の入場を禁じているので、一日四回の舞踊まつりを見てもらえたのは、三日間で約一万三千人ということになる。
演しものは、江戸時代の町火消しの扮装で日本からもっていった背景の前で踊ったのだが、みんな、たいへん静かに見ていてくれたが、片肌ぬいで、入れずみの肉を見せると、一瞬、異常などよめきの起ったのは面白かった。
この地で日本の時代劇が好評であることは先にもふれたが、市川右太衛門さんの「旗本退屈男」は“諸派流青眼崩し”とやるのをみんな「モロハモロハ」と覚えてしまっていたり、中村錦之助君は、劇場で泣く映画の多かったせいか“泣き虫の青年”というニックネームまであってたいへんな人気である。おまけに、日本と同じようにファン投票によるスターコンテストも“ハワイ報知新聞”の主催で毎年行われている。五十九年度のスターコンテストでは、男優はさいわい私が、女優では山本富士子さんが一位になっていたけれども、やはり時代劇俳優に人気が集まっていた。
ファンというのはありがたいもので、合衆国の一州になったここにも私の後援会があり、はじめて後援会の人たちと会ったわけである。みんな揃いの紺のはっぴ白襟に赤字で“市川雷蔵後援会”と書き、背中には大映のマークの入ったのを着て集まってくれた。大半が若い女性なのは日本と同じだし顔も体つきもそうなのだが、ここでは通訳つきの歓談である。ところが、ただ一度、後援会の代表の人が日本語で挨拶をしてくれたのだが、これがなんともむつかしい日本語で、不思議に思ってのぞいてみると、ローマ字で書かれたものを読んでいるのだ。おそらく話している一言一言の意味はわからないのだろうが、それも当然のことだろう。日本から留学してきて一年目という女性とも会ったが、この人ですら、話す言葉は片言のような日本語であったのだから。
旅程の最終日、待望の海水浴をワイキキの海岸でやってのけた。海岸には連日、海水浴を楽しむひとびとが大勢集まっているけれども、それは海水浴というよりも日光浴といった方がいいような光景だ。海に入るより、砂浜で背中をやいたり、腹をやいたりしている。これで、お正月に海水浴をすることも、しばらくはあるまいと思えば、時間の少ないのがいささか残念だった。
あれやこれやで、いろんな思い出をのせてハワイを飛びたったのは一月四日午後十時半。往路には、日付変更線のために、十二月三十日を二度迎えたかわりに、今年は、一月五日というのは日が私にはなく、日記帳は一月四日から六日と、一月五日の欄は空白になってしまった。( 「時代映画」60年2月号より )