戦局たけなわの頃

 嘉男の小学校上級時代から中学に進むころにかけて、当時日本を挙げて闘っていた戦争の様相が漸く激しくなってきた。そして、級友たちの間にも、軍人の子が幅をきかすようになって来た。歌舞伎俳優の子としての嘉男は、こうした雰囲気のさなかにあって、なにか柔弱に思われやしないかと、自らひけ目を感ずるようになっていた。

 その頃、海軍経理学校へ入っている小学校の先輩からよく手紙を貰ったが、そうしたことから、いつしか彼は海軍兵学校か経理学校へ憧れを持つおうになった。勿論そんな時でも芝居を見ることは嫌いではなかったので、機会さえあればよく観に行った。そして子役時代の中村扇雀や嵐鯉昇(後の北上弥太郎)たちともよく遊んだ。当時こそきかなかったが、後に映画界へ入ってから親友同志になった林成年も当時舞台で活躍していたのである。

 戦争は益々激化した。九団次一家は京都へ疎開した。その結果、毎日のような空襲警報下に、京都からはるばる大阪の天王寺中学校まで通学することは、嘉男にとってようやく煩わしいものに思えて来た。同時にこの戦争下における勉学そのものに、意義を見失うようになった彼は、遂に学校をよしてしまったのである。

舞台への夢

 京都で終戦を迎えた嘉男は、前からの惰性で何をする目的もなく、無為の日々を送っていたが、やがて歌舞伎興行が華々しく行われるようになると、それが父の職業でもあるし、丁度人手不足ということもあって、周囲の人たちのすすめるままに、彼は一度舞台に出てみようという気持ちが湧いて来た。

 三代目市川莚蔵を襲名しての初舞台は、大阪歌舞伎座公演の「中山七里」における茶屋娘お花という女形の役だった。しかし、この女形というのは、彼の好むところではなかった。これを一回切りで辞めてしまわなかった大きな原因は、この歌舞伎の中に子役時代から知り合っていた扇雀、鶴之助、鯉昇といった彼と同年代の友だちがいたことで、いつとはなくこの空気になじめるようになり、半年、一年とすごしていったのである。

 そんないわばのらりくらりとした彼の気持ちに、芸術への情熱の灯を点じたのは、前記の若い人たちと共に、「つくし会」という歌舞伎の研究団体を作ったことから始まる。彼莚蔵と鯉昇とが幹事になって、最初脚本朗読会からはじめたこのつくし会は、二三ヵ月後には、名古屋御園座で彼等だけの公演を持つように成長したが、彼もまたこの公演の出し物「修善寺物語」の頼家の役で、この指導に当った関西歌舞伎の重鎮市川寿海に感歎の眼をみはらせるまでに成長していたのである。