僕は役者や

市川雷蔵と僕との仕事は十五本を数える。

彼が大映京都に入社したのは、僕が助監督になって三年ほどあとだったと思う。僕の第一印象は、こんな役者を入れて、どうする気なんだろう、と感じたのが本音だった。浴衣をだらしなく着て、すり足で撮影所内を歩くニキビ面の彼の姿をみて、こりゃ、どうにもならんわいと思った。

下積みの助監督のひがみが、単に歌舞伎の名門の御曹子だというだけで、最初からスター扱いされているこの青年に対して、より一層の反発心をあおり立てたのかもしれない(その頃、僕は、市川雷蔵の複雑な生い立ちは知らなかった)

何年間というもの、市川雷蔵という役者と、口をきくこともなく過ごした。不思議と彼の作品に助監督として就くことがなかったのが、ますます彼との接触を遠ざけていた。

その間に、市川雷蔵は徐々に、トップスターの座を確保していった。溝口先生の「新平家物語」以後の市川雷蔵は、次々と新境地を開いていったし、彼の芸は一歩一歩、本物への道を前進していた。

僕は自分の不明を恥じねばならなかった。市川雷蔵の入社時に感じた反発が薄れ、その頃は、何とかして彼と友達になりたい、彼といろいろ話をしてみたいと思うように変っていた。

彼との交遊が芽生えたのは、三十三年、市川崑監督の「炎上」の時だった。僕はセカンド助監督として、この作品についた。三島由紀夫氏の原作「金閣寺」を、市川監督が大映京都に来て映画化するときいて、希望してスタッフに入れてもらった。当時、京都でこのような異色の現代劇を撮ることは、少なかったし、よい勉強になると思ったからだった。入社して八年、どうやら映画作りというものが判りかけてきた僕は、この仕事で、市川崑氏から、出来るだけ吸収してやろう、と張り切っていた。その僕を大変失望させることが起こった。主人公の溝口吾市青年を市川雷蔵でやることに決まったのだ。こりゃ駄目だ、市川雷蔵にやれる役と違う。これでこの作品は失敗作になるだろうし、せっかくここまで築きあげてきた市川雷蔵自身の人気も、イメージも、ぶちこわされてしまう。そう思って、大変がっかりしてしまった。時代劇のヒーローが坊主頭の、吃りの青年を演れるわけがない、市川雷蔵は、もっと自分を大切にすべきだと思った。やる方もやる方だし、使う方も使う方だ、いっそ無名の新人でやった方がいいとさえ思った。

ところが、市川雷蔵は、この吃りの青年を立派にやり遂げてしまったのである。その上、「炎上」の演技で、ブルーリボン主演男優賞までかっさらってしまった。まさに驚きであった。僕は、つくづく、市川雷蔵という役者の底の深さに畏怖さえ覚えた。こいつは、ただものじゃないと。

この作品を契機に、僕と彼とは急激に親しくなっていった。脚本を書くと、まず彼に読ませるほどの仲になった。そして、彼のいろいろな面に接していくうちに、この男は、生涯の友として、滅多に得られない男だと感じた。

市川雷蔵の出生から、青年期に至るまでの有為転変は知られるところだが、歌舞伎界という因習、封建の世界の中での成長過程で、彼が、独特な思想、観念を自分の中につちかいながら生きたことはうなずける。同時に彼の強固な、底意地と思われるまでの意志、それに「絶対に他人に分をくわれてたまるか」といった激しい根性が植えつけられていったであろうことも想像出来る。それはしかし、歌舞伎界の中で通用させられなかったのではないか。彼が歌舞伎の世界を飛び出して、映画界へ転進した一つの動機の中に、大きく、そうしたものがあったと思う。それだけ強固なものを把握していたから、彼は最後まで、それを通せたのだろう。

彼の幼少の時(もちろん遊び友達は伎界の子供たちばかりであった)、その中のさる名門の子供と相撲をすることがしばしばあった。その子供に負けると、その子供の婆やさんが、負けた子に飴をくれたという。他の子供は争って負けてやったという。しかし市川雷蔵は決して負けてやらなかったという。「僕は飴なんて欲しゅない」彼はそう叫んだそうだが、彼の負けなかったのは、単に飴の問題ではなかったのだろう。子供心の中にまで浸透していた。その世界の、おべんちゃらに対する反発だったと思う。「分を喰わされてたまるか」という雷蔵の信念が、負けることにより生ずる自分のコンプレックスを押さえようと、あの痩弱な足腰で、ぶつかっていったのだろう。

そうした彼だから、よくいじめられたらしい。新しい帽子をかぶっていくと、そうした子供仲間が、それを取り上げて、泥水の中に投げ込んだりした。しかし雷蔵は決して泣かなかったという。皆の去ったあと、唇をかみしめて、泥水の中の帽子を、にらみつけていたという。今にみてろ、役者は芸で勝負するんや-そう思っていたに違いない。

物事に甘えることの出来なかった雷蔵の過去が、甘ったれに対する厳しさをより一層強くしたのではないか。甘ったれた物の考え方、イージーな妥協、底の浅い論理を彼は極度に嫌悪した。表面的な粧いのごまかしを侮蔑していた。「演技やとか、演技者とか、うわっつらのことばかり言って、芝居でいいやないか、何が演技者や、僕は役者でええ、僕は役者や」そう言っていた。プロフェッショナルに徹底しない人間を嫌い、プロに生きることのむずかしさ苦しさを、自分に押しつけていた。そして、それを実行している人たちに、崇拝心に似た憧憬をもっていた。

そうした彼は、しばしば冷酷非情な人間にみられることがあった。確かに、一面非情な点は多々あった。しかし、他人に対してより以上に、彼は自分自身に対して、冷酷非情に振舞っていたはずだ。

市川雷蔵という男は、大変とっつきにくい男だったから、親しくなるには時間がかかったが、いったん親しくなった人は、彼の非情さの裏面にかくされた温情を感じて離れてゆくものはなかった。

毒説といえば、市川雷蔵といわれるほど、彼の毒説は有名だったが、彼の毒説は、相手を奮起させることはあっても、相手を打ちのめすことはしなかった。彼の毒説の背後には、友人、後輩を想う友情と配慮が常にあった。そして言っても無駄だと思った相手には一切言いはしなかった。

気にいった仲間には、挨拶代りに、拳骨で力一杯、腕の付根をなぐりつける。立回りをやれば搦みの連中の肩や腕の下を狙って、刀を力一杯たたきつける。朝、彼がセットに入ってくると、仲間たちは拳骨の洗礼をさけて逃げ回ったし、立回りの搦みの連中は、自衛手段として、衣裳の下にベニヤ板やらボール紙をかくしていた。一時はあまり度が過ぎて顰蹙さえかったほどだ。一度それとなく注意したことがあったが、なかなか簡単にいうことを聞く男ではなかった。しかし彼のそうした行動は、自分の気にいった仲間だけに限られていた。彼にとっては、親密さの表現であり、一種の愛情の発露だったのだ。ことごとこのように逆説的行動の持主であった。

何年かのち彼の家を訪問した際、当時、生まれた長女を泣き出すまで、じわじわと、からかう。赤子が、今にも泣きそうなので、見かねてやめさせようとすると、「赤ん坊が、我慢して、耐えられなくなり、泣き出す瞬間の顔が、何ともいえんほど、可愛くて、好きなんですよ」と言った。どうしてこの男の考え方は、こうもひねくれているのだろうと、呆れたものだ。僕はその時、この役者が四十を過ぎたら、山本有三の「波」をぜひやってみたいと思った。自分の子供を愛しながらも、その子供が、妻の不貞の産物ではないかとの疑心から、事ごとに、いじめ抜いた父親が、その子供が自分の子に違いないと確信を持った時、思わず飛んでいって抱きしめるシーンを、市川雷蔵は、どういう愛情の表現で演ずるかみたかった。彼なら、とんでもない方法で、やるんじゃなかと思った。

後日(それから五年ほどして)彼が最初の手術をして、僕と眠狂四郎をやっている時、波の話をしたことがある。彼も乗り気になってzひやりたい、と言っていた。しかし実現せぬまま、彼は逝った。

 

当時、僕の書く脚本は、喜劇タッチの風刺時代劇ばかりだった。例によって、書き上げると、必ず鳴滝の彼の家へ持参し、読んでもらい、役者としての彼の意見をきくことにしていた。そうしたある日

「池ちゃんは、どうしてこういう傾向のものばかり書くのか」と彼が尋ねた。「どうしてって、こういうものが好きだし、自分には喜劇タッチの作風がむいてると思うから」そう答えると、 「じゃ一体、役者は誰でやるのや?少なくとも僕は出来ませんよ」 僕は、別に、彼のやる脚本を書いてたつもりは毛頭なかったし、そういう言い方をされて、少々腹が立った。 「別に雷ちゃんに合わせた脚本を書いてるんじゃありませんよ、僕はただ、僕の脚本を、主演役者の立場から批判してもらおうと思って持ってきてるんです」 「そやけど、実現性のないものを、いくらやったかて、そりゃ無駄と違うやろうか」 そうまで言われると、何をか言わんやである。僕は何も言う気がしなくて黙ってしまった。彼はしばらく黙って僕をみつめていたが、 「なあ、もっと僕を利用してください。あんたは、そういうことをするのがいやかもしれんけど、人間利用し合ったら、ええやないの。そりゃ自分のやりたい物はあると思うけど、とにかく一本撮ることが先決問題やと思う。監督にならんことには、どうにもならんのと違うかな。だから僕がやれるものを書いてくださいよ。そういう脚本が出来たら、僕は会社に、これを池ちゃんで撮らしてくれと頼む。そう言ってはなんだけど、現在の僕は、助監督のあなたより会社に対する発言力は強い。だから、もっと僕を利用してください。その代り、池ちゃんが一人前の監督になったら、その時は、僕が池ちゃんを利用させてもらう」

僕は、彼の気持ちがうれしかったし、事実、あいがたいと思った。しかし、その時、どうしても素直に「そうするよ」と言えなくて鳴滝の家を辞した。それ以後、彼には脚本を見せに行ったことはない。そして、相変らず風刺時代劇のシナリオやらプロットを企画部に提出していた。

それから一年ほどたって、企画部長の鈴木(現在所長)に呼ばれた。 「お前はどうも風刺時代劇をやりたいらしいから、これ一本撮ってみい」 そう言われて差し出されたのは、陣出達郎原作の「薔薇大名」という脚本だった。小林勝彦君の主演で撮り上げ、まず好評の部類に入った。 引き続いて、南条範夫原作の「天下あやつり組」を撮った。これも批評はまずまずで、風刺時代劇として、各紙がみとめてくれた。

「まだ、オーソドックスなものやる気にならへんか」 そう言って、市川雷蔵の訪問を受けたのは「天下あやつり組」を撮り終って一か月もたたない頃だった。返事を渋っている僕に、彼は、どうしてもやってほしいのだ、と言う。

実は僕には、彼の心情が痛いほどわかっていた。「天下あやつり組」は各紙の批評はよかったのだが、本社の試写では、くそみそにやられ、ラストシーンの撮り直しを命ぜられていた。 おそらく当分、もしかすると一生、再び僕に監督のチャンスはこないかもしれない状態だった。市川雷蔵は、そうしたことすべてを知って来たのに違いなかった。二時間にわたって、彼は僕を口説いた。 「風刺とか戯画化ちゅうのは、うちのおえら方は好かんのや。だから、オーソドックスなものも撮れるということを、ここで一度みせんと、もうチャンスはこないかもしれないよ。あんたは、それでいいのか、また時機が来たら風刺ものも撮れるやないか。この際、正統劇をやりなさい」

僕と市川雷蔵の初めての仕事は、こうしたことがあって始まった。長谷川伸原作の「沓掛時次郎」である。鳴滝の夜から一年半が過ぎていた。「沓掛時次郎」は営業成績も大変よく、この仕事がきっかけとなって、僕には次々と仕事が与えられるようになった。

この時、彼に口説かれていなかったら、僕が現在もなお大映に、というより映画界にいただろうか、と考えると感無量である。

市川雷蔵と僕とは性格的に、むしろ正反対というほど異なっていたが、仕事を通じて話し合うと、意見はよく合った。お互いに、反発しあい、軽蔑しあい、反省しあい、探りあいしながら、うまくチームワークがとれていたような気がする。

 

ある時期、市川雷蔵が、監督に執着したことがあった。それが、いかなる事情で実現しなかったのかつまびらかでない。おそらく永田社長が許さなかったのだと思う。結果的には、彼が監督をやらなかったのはよかったと思う。彼が監督に執着したのは、他人の才能をあてにして作ってゆく、役者としての領域に深い疑惑と焦燥を感じたからに違いない。しかし映画作りという仕事が、一人で出来る仕事でないことは本質的な宿命で、どこかで他人の才能をあてにしなければならないと僕は考えていた。 「監督などといわず、プロデューサーをやりなさい」 僕は彼にそう言っていた。 それも、自分は役者としては参加せずに、自分の選んだ題材、脚本家、監督、役者で思うようにやったらいい。そして自分の意に添わなかったら、撮影中途でも、監督や役者を変える決意でやったらいい。 そんな話をしたことがあった。彼自身、プロデューサーの夢は、以後抱きつづけていたし、プロデューサー的発言が多くなったことでもうなずけた。

四十三年、市川雷蔵は、自らのプロデュースを実現させた。「劇団鏑矢」の創立である。 彼は、挨拶状の中で、こう述べている。 

「このたび私は、自分でプロデュースした舞台で演じるという試みを持つことになりました。長年あたためておりました夢の一つで、役者である私への秘かな宣戦の布告であります」

この舞台稽古開始直後、彼は病に倒れた。鏑矢を口火にして、市川雷蔵プロデュースの映画を、なんとしても実現させてあげたかった。

彼がどんな映画を作ったか、それを実現出来なかったことが惜しまれてならない。(「侍市川雷蔵・その人と芸より」)