雷ちゃんは“恩人”
雷ちゃんとは、長いこと撮影所にいても、それこそ口もきかぬ仲でね。親しく話をしたことはなかったですわ、なんとなくウマがあわなくてね。それが、ボクと雷ちゃんを結びつけたのが「炎上」(市川崑監督)だったんですわ。このときのチーフ助監が田中の徳さん(田中徳三監督)、セカンドをボクが勤めた。勝手なことを言いあっているうち、急に仲よくなってね。雷ちゃんとは性格、物の考えも違うんだけど、お互いに自分にないものを求めて、親しくなったんだろうね。
監督として初めての仕事は「薔薇大名」で、これは当時SPといわれた短編で、助監督から監督になるためのラストチャンスでしたわ。これを二本ほど撮ったけど「薔薇大名」では、友情出演を買って出てくれた雷ちゃんに、どうせ出てくれるなら既成の雷ちゃんと違うイメージで出てくれ、とボクはわがままをいって、当時はやっていた守屋浩の「僕は泣いちっち」という歌を劇中で歌ってもらいましたわ。あの音痴な雷ちゃんが、ですよ。
ところが、二作とも社長(永田雅一元大映社長)のゲキリンをかいましてねえ。ボク自身としては、助監督時代から、風刺時代劇をやりたかったわけですわ。そこへ、雷ちゃんが「社長に気に入られなければあかん。一度、オーソドックスなものをやって、こういうものもできるということを、見せたらどうや、それから監督の発言力も出るだろう」こう言ってくれましてね。
当時、すでにトップスターの雷ちゃんが、「沓掛時次郎」(昭和三十六年作品)を撮ってくれないか、言ったんですわ。ボクはね、「冗談じゃない。昔ふうの物を撮るなら(監督)を辞めてもええ」そう反論した。ところが、雷ちゃんは「思う通りに撮ったらええやないか。自分なりのタッチでやったらええやないか」。雷ちゃんに、二時間も粘られて「やってくれ」いわれて、作ったのが、この「沓掛時次郎」ですわ。ですからな、雷ちゃんに強くいわれなければ、今は、ボクはとっくに監督なんかやっていなかったですわ。“恩人”ですよ、雷ちゃんは。
ま、その後「中山七里」「ひとり狼」と股旅物をやりましたが。今思うと、兄貴分だったり、あるいは逆だったり、時には師匠だったりと、雷ちゃんの友情は、ふつうのそれではなかったね。お互いボロくそにいいあいながら、自分にないものに、魅かれあった。
それに、あれだけなんでもできる俳優は、もう出てこないんじゃないか。浪人もヤクザも侍もできる、レパートリーの広い男優だった。加えて、彼の育ってきたプロセス、くぐり抜けてきた生活環境、有為転変をにじみ出せる人でしたね。それを役柄の中にとけこませることのできる人でしたわ。
彼の生い立ちを、演技にプラスへ、消化させていくことのできる人やった。今ごろ、自分のプロダクションをもって、映画作りか、テレビに進出していただろうなあ、骨のある物を作っていたと思うね。NHKの大河ドラマなんか、主にやっているんじゃないか。
彼、市川雷蔵は、絶対愚痴をこぼす人でなかった。それが、死ぬ前に、非常に弱気な、情けないことをいうので、オカシイとは思っていた。「相当危ない」というニュースは耳に入っていた。
その日は、朝の八時すぎに知らせをうけてボクは泣いてちゃってね。緘口令がひかれてはいたんだけど、広まっちゃってね。たまたま、お通夜のシーンがあって、真っ赤にはれた目を、サングラスで隠して、仕事をした。ガクッときたそのショックは、あとにも先にも味わったことのないものでしたね。(「ミノルフォンレコード・日本映画名優シリーズ市川雷蔵魅力集大成」より)