供華に代える
幼少にして共に同じく歌舞伎俳優としての素養を身につけ、長じて同じく映画に転じてひとしく 主演俳優としての名声を博し、更にまた共に同じく舞台公演用の一座を主宰した。この二人−市川雷蔵・中村錦之助。
私はこの両優と共に仕事を同じうする機縁を持った。
当時、映画会社の専属主演俳優は他社への交流出演など厳しい拘束状態におかれてあったのだが、両優とも映画とは別個に自己の演劇活動の場を保持しているので、私はひそかに交互交流出演の舞台を画策した。
しかし、そのような企画だけをナマのままで持ち出してみたところで、待ってました、おいそれと、百に一つ、実現の見込みなどあろうはずもない複雑な機構の「世界」である。
要は、脚本一つにかかる。
それには、両者が共に主役であるべきことが決定的な先決問題であり、実質的には共演ではなく競演であり、双方の役に共々に花を持たせ、演ずる両者も観客も、共に手に汗握って堪能できる舞台を展開する−両優いずれもが主であって、客であってはいけない。例えていえば一方が机竜之助であれば一方が丹下左膳で、両々相対さなければいけない−となると、そうした題材はザラに転がってはいない。
しかも、交互出演を予定しての企画となれば、すくなくとも差し当たって二本の脚本が必要である。幸い、年来温めていた好個の素材があったので、それを両優の芸質に勘合塩梅したが、こうした話は迂闊に外部に洩れると、とかくに不慮の邪魔が入って実現を阻害されるものなので、一、二の知友以外には洩らさなかったが、ひとしく共感と支持を得たので大いに心勇んで準備に取掛っていた次第なのであるがもはや返らぬ繰言となった。
この戯曲の構想は、雷蔵・錦之助両優の特質を土台に踏まえて苦心経営したものなので。両者併立しての舞台ならでは、もはや、遂に、上演すべきよすがとてもない。
「二本ながらに上演しないこと」をもって雷蔵氏への供華の代りに捧げる。(「侍市川雷蔵・その人と芸」より)