雷蔵を養子に
私は養父の寿美蔵が、団九郎という実子があるのに、私に寿美蔵の名前をくれた恩義があり、誰か養家の者に寿美蔵を譲りたいと思っていましたので、寿海襲名を機会に団九郎の実子の団次郎に七代目寿美蔵を襲名させました。
めでたい時にはめでたいことが続くもので、翌昭和二十五年二月には毎日演劇賞、二十六年三月には梅玉賞をいただき、その四月、子宝に恵まれない私は縁あって市川九団次の息子莚蔵を養子に迎え、八代目市川雷蔵を襲名させました。
九団次は左団次さんの弟子で、前から知っています。苦労した人でして、かねがね
「自分のところへ置くより、あなたの所へあげた方がしあわせだからもらってくれ」
と頼まれ、白井さんも
「あの子ならいい」
と仲へ入って下さったわけです。この時、大阪歌舞伎座で私の弁天小僧に赤星重三郎をさせ、これを襲名披露狂言としました。
(60年4月10日発行 展望社)
寿海の「寿の字海老」は、日本経済新聞に連載した「私の履歴書」と、芸談抄「楽屋のれん」、先輩俳優達を描いた「おもかげ」、の三部構成になっている。奢り気負い衒いのない平明な文章は、温厚、篤実な人柄が感じられ、容姿、風格、口跡良しの寿海の舞台を懐かしく思い出させてくれる。夥しい数の歌舞伎芸能タレント本が出版されるこの時代、この「寿の字海老」を読み直すと、上梓された昭和35(1960)年から今日までの、ほんの45年の歳月で、歌舞伎が、演劇が、寿海さんに叱られることを承知で大げさに言えば、日本が失ってきたものの大きさを実感する。(Blog:ゴルドーニ 提言と諫言より)
寿の字海老:成田屋 意匠。 他に三升/杏葉牡丹/鎌○ぬ(かまわぬ)+三筋/荒磯等
寿の字海老と三升に雷の手拭