雷蔵は、二十九年にデビューし四十四年に逝くなるまでの十六年間に、153本の映画に出ている。ほぼ五年を周期とすると、第一期の雷蔵作品中、特筆しなければいけないのは、なんと云っても「新平家物語」である。

ベニス映画祭で三度目の受賞をした直後の溝口健二監督は、晩年の最も油の乗り切っている時であり、雷蔵はこの厳しい監督の期待に見事に応えた。下級武士からたくましく伸び上ってゆく青年清盛は、映画界に於ける市川雷蔵を象徴していると言っていい。この映画のクライマックス・シーンで、祇園神社の神輿を弓で射抜く清盛の気魄に満ちた演技は、明日の日本映画のスターを約束するに十分な迫力を持っていた。そして、野に遊ぶ公卿どもを見ながら、清盛が哀れみと敬意をこめて「今日はお前達が主人だが、明日はもはや、お前たちの世ではないぞ」と叫ぶ言葉は、新しいスターが誕生したことを告げているのだった。

当時、大映京都撮影所には、長谷川一夫という大スターが、座頭としてのゆるぎない地位を築いていた。時代劇の二枚目スターとして、長年王座を占め続けた長谷川一夫の影響力は巨大であった。ようやく主演俳優として一人歩きを始めた雷蔵も勝新太郎も、この大先輩の影響から脱皮出来ないでいた。しかし、この清盛の演技は、長谷川的二枚目から少しでも脱出した若者らしさを印象づけたのである。(一方、勝は、かなり遅れて「不知火検校」それに続く「座頭市物語」まで、その脱皮の時期を待たねばならなかった。)

私が二度目に雷蔵に会ったのは、昭和32年初夏である。市川崑監督で三島由紀夫氏の名作「金閣寺」(映画題名「炎上」)を映画化することになり、市川監督と私は、大映本社の企画本部長室で主役の溝口青年の配役の相談をしていた。既成の俳優にない新鮮さが必要で会議は難行していた。その時、市川監督が傍らの壁に貼ってある一枚のポスターを指して「ここにいい俳優がいるじゃないですか」と言った。「弥太郎笠」のきりりとした股旅姿の雷蔵が、そこにいた。市川監督の慧眼は、所謂二枚目時代劇スターの内に秘められた清新さと演技力を見抜いていたのである。

早速、市川監督と私は、帝国ホテルに滞在中の雷蔵に会いにいった。白いスーツをきちんと着た雷蔵は、清潔感のただよう美貌と、張りのある涼しい声で私を魅了した。彼は溝口青年の役をどうしてもやりたいと希望した。が、思わぬ障害が待っていた。会社がどうしても雷蔵にその役は駄目だとクレームをつけて来たのである。長谷川一夫の後継者として売出し中の二枚目スターがこともあろうに国宝金閣寺を焼く犯罪者を演じるなど、もっての外だというのだ。以来一年間、撮影許可が下りなかった。この作品が出来たのは、一年間ねばり続け本社をくどいた市川崑監督の情熱と、雷蔵の熱望があったからである。こうして、雷蔵初めての現代劇は名作として高い評価を受け、雷蔵は主演男優賞に輝いた。

「炎上」は、雷蔵の演技者としての転機になると共に、第二期への力強い第一歩となったのである。