あげ羽の蝶(18)僕の手帖から

 今回は同じ映画人となった市川雷蔵(本名太田吉哉)と僕とは、吉哉ちゃん、錦ちゃんと呼び合う親しい仲です。

 戦争中から戦後にかけて、父時蔵は年に二回ほど関西に出演し、僕もまた一緒に連れられて行きましたが、そのころは宿屋も不自由で、僕たちは楽屋泊まりでした。大阪の歌舞伎座に泊まっている時、京都に家があった吉哉ちゃんも、晩くなると楽屋泊り。性格はちがうのですが、どこか気が合うとみえて、いつしか吉哉ちゃんと僕は親友になりました。

 吉哉ちゃんは親しい者と話をしていて何か興にのると、突然相手をピシャリとたたくクセがあります。そのピシャリが軽いものでなく、力一ぱいだからかないません。気の強い僕ですからそんな時は、こちらもポカリとやりかえしますが、吉哉ちゃん、悪気でやっている訳ではないからおこりもせずにまたピシャリ。そうなればこちらもポカリ。楽屋でのこのピシャリ、ポカリが廊下まで聞こえ、さてはケンカとばかり、驚いて止めに入る人もしばしばでしたが、内を見ると親しげに話しあってるので、あっけにとられてひっこんでゆきました。

 舞台での初顔合わせは、大阪歌舞伎座での「夕涼み」という踊りでした。カブキ・バラエティとでもいったもので、扇雀さんが若だんな、鶴之助さんの田舎娘、それに延二郎さん、鯉昇さん(現在の北上弥太郎)に、吉哉ちゃんといった関西カブキの若手のなかに僕は芸者になって加わり、それぞれ思い思いの踊りをみせるといったものでした。つづいて、寿海の直次郎、父の三千歳での「入谷の寮」の時は僕の千代春で、吉哉ちゃんの千代鶴でした。

 一緒に出た舞台で一番思い出深いのは昭和二十七年八月の明治座での「十六夜清心」(寿海の清心、父の十六夜)の時、一日交代で僕と吉哉ちゃんが求女の役を演ったことです。二人とも寿海さんから教わったのですから、セリフ廻しが少し違うぐらいで、大体同じなんです。舞台に立つとモリモリと競争心がわき、教わったことをやるので精一杯のなかにもお互いにいろいろ工夫しあったのです。だが、家に帰ると、この競争心もどこへやら、僕の家に泊まりこんでいる吉哉ちゃんと清元の小志寿太夫、長兄の歌昇の四人で、ふとんの上でタオルを手に巻いての拳闘ごっこで暴れ回ったものです。

(「読売新聞」昭和31年8月4日より)