私が雷蔵さんとじかにお目にかかったのは、昭和三十五年の四月二十日でした。なぜよく憶えているかといいますと、私が入幕して二場所目、つまり三十四年春場所で前頭四枚目のとき、七勝八敗で負け越して大阪から帰って来た頃だったからです。幸いにして、その後負け越しを喫していませんが、その時はやはり気分的にもいい状態ではなかったのです。
その頃、雷蔵さんと親交があり、私ともよく顔を合わせていたあるジャーナリストが、「市川雷蔵さんが関取の後援会に入りたいといってるよ。俳優の雷蔵でなく、あくまで一ファンとしてあこがれているんだ」と話てくれました。
正直いって私は、その頃後援会の幹部クラスの実業家の方々以外に、有名人とのおつき合いはなかったので、「天下の人気スターの雷蔵さんが、自分のファンだって?ヘェーそんなもんかね」と内心驚いたものです。
初対面当日、雷蔵さんがお見えになるというので、私たち部屋の者はチャンコ鍋を用意して待っておりました。両国の部屋に見えた時は、地味な背広姿で、前述の記者と二人だけでじつに気軽な感じでした。いっしょにチャンコをつついたあと、その夜は深川の料亭で色々と話し合いましたが、お別れする時はもうずっと前からの知己のようになっていました。
その時に、雷蔵さんが心技未熟な私に授けて下さった人生論、忠告、激励の言葉は、私に深い感銘を与えたものです。その直後の夏場所には思う存分に相撲がとれ、十一勝四敗の成績で小結に昇進できたのも、忘れられないことの一つです。
それ以来、時にふれ折にふれて私の良き相談相手として、本当の兄のような気分でわがまま一杯に兄事しておりますが、ありがたいことです。私が大関になり、横綱になった時も、まっさきにかけつけて喜んでくださった・・・それにも増して嬉しかったことは、いつかの大阪場所の時、北海道からやってきた母を、忙しい撮影の日程を縫って、京都見物に連れていってくださったことです。私も同行しましたが、もう嬉しくって涙が出そうでした。
それからもう一つ、よく人は私を呼ぶのに「大鵬関」とか、「横綱」とか云うのですが、雷蔵さんはそういう古風な呼び名がきらいなのか、最初から「大鵬クン」、「キミ」で通しておられます。ごく当り前の話ですが、近代青年雷蔵さんらしくて面白いと思っています。
その雷蔵さんも、去年の三月に恭子さんという良き伴侶を得られた幸福な毎日を過されているとか・・・と、よそよしくいうわけでもヒガんでいるわけでもありません。ただ一度も、夫人にお目にかかったことがないのです。聞けば雷蔵さんの新居は殊のほか頑丈だとか、近いうちに私が暴れ込んでもこわれることはないでしょう。
最後に、雷蔵後援会の皆さまとともに、雷蔵さんの今後のご活躍をお祈りしましょう。
(02/20/63 よ志哉 33号) |