わが友・雷蔵クン行状記

近世名勝負?物語

雷蔵とはどんな青年なのでしょうか?

仲よしの錦ちゃんが、その交友を通して見た

雷蔵さんの人間像を、ざっくばらんにメモとして書いて下さいました。

 ヨシオちゃん

 今でも、ヨシオちゃんと僕は呼んでいる。すこしシャクにさわることがあるとヨシオと呼びすてにもする。逆に特別気分がいい時も同様だ。終戦後間もなく、初めて大阪の歌舞伎座で会った頃の彼の名前が嘉男なのである。考えるとその頃の僕達は未だ可愛い十四、五の子供だった。今だって多少の可愛らしさは残っている積もりだが、その頃は特にかわいかった(ホントかな?)。

 別に大した役を勤めるわけでなし、並び腰元(だまっているだけの女形の役)だとか、よくって五ツか六ツのセリフの役だから、その芝居の合間にはずい分閑な時間もあつたし、それに僕達は劇場の楽屋を豪華ホテルに見立てて寝泊りしていたので、いつでも一緒の機会が多かった。

 そんな時に、ヨシオちゃんと僕はきまって相撲をとった。べつに未来の横綱を夢みて稽古にはげんだのではないが、芝居が終ったあとで、思う存分楽屋で暴れるのが、僕達二人の青春とまでは行かない少年時代の若さとウップンの唯一つのはけ口となった。

 あんまりドッタンバッタンと暴れ廻るので、下の部屋にいる先輩のえらい俳優さんから怒られることもよくあった。その時だけは、きまって二人は小さくなって頭を下げたが、翌日は前の日以上に、僕達は、相撲とも、柔道とも、掴みあいの喧嘩ともつかぬ、不思議なスポーツにはげんだのである。

 その後、ヨシオは市川寿海さんに望まれて養子になり、名前も太田吉哉となったのだが、僕は矢張り今でも「ヨシオちゃん」と呼びたいし、事実そう云っている。ヨシオちゃんと云うたびに、何故か僕にはあの頃の芝居の楽屋の畳の匂いがなつかしく思い出されるのだが、ヨシオちゃんはそれを憶えているだろうか。

ケンカ友達

 世間でよく喧嘩友達というが、僕達はまさにそれである。実によく喧嘩をした。べつに刃物を持って渡り合ったわけではないが、口ゲンカのたぐいは、思い出すときりがない。知らない人が見るとどうなることかと案じるが、僕たち二人は、次の日はケロリと忘れてしまっている。

 僕はつねづね「一心太助」じゃないが気の短い江戸ッ子を以って自ら任じている位だから、せっかちで我儘なところも多分にある。それを知っていて、彼はわざと僕をじらせたり、イライラさせたりする。何時だったか、築地の料理屋さんで、何かの拍子に、彼は僕のデリケートな神経(?)を刺激するような言辞を弄した。あんまりシャクにさわったので、僕は「そんなら帰るよ」とおどかしたが、彼は平気な顔で「ああ、いいとも」と云う。こうなると江戸ッ子の手前、僕も一歩もあとへは引けない。「ようし」とばかり女中さん達が慌てて止めるのも聞かばこそ、一目散に外へ飛び出したまでは勇ましかったが、そのあとがいけない。よく見ると、下駄ばきで飛び出したくらいだから、上着もそこへ置きっぱなし、十円のお金だって持っていない。今更取りに帰るわけにも行かず、都電の停留所のあたりで、どうしようかとウロウロしていたのはあんまり恰好のいいもんじゃない。我ながら情なかった。

 うしろから僕の肩に手がかかったので振向くと、そこにヨシオちゃんが立っていた。「寒いだろう。さあ行こう」流石に心配になって僕を探しに来たのだが、その眼はまだ少し笑っていた。何だか口惜しくて、僕は彼を睨み返してやった。星が空いっぱいに輝いていた、十二月も末の寒い寒い晩のことである。

春風のような

 「馬鹿か怜口か分からない人です」と或る人が彼のことを云った。(断っておきますが、僕が云ったんじゃありません。雷蔵ファンのみなさん、誤解しないで下さいね)

 ヨシオちゃんと話していると、実にのんびりした印象を受ける。春風駘蕩というのはこんな感じを云うのだろうか。とにかく落着いたいい感じなのである。時にはシャクにさわる程悠然としている。怒ることがない。馬鹿ではないがバカみたいに見えることだってある。それでいて、一度理屈を云いだしたら、とうとうと自分の云わんとするところをはてしなく述べたてる。仲々の理論家で、ふだんも歴史だの、考証だののむずかしい本を読んでいるから、口下手で読書には遠縁の僕なんかとてもかなわない。ヨシオと云うと忠臣蔵の大石良雄を思い出すが、この大石さん、あんまりのんびりしてくったくがなさそうなので人は軽蔑の意味をこめて“昼あんどん”というニックネームを奉ったそうな。その“昼あんどん”が今の世に尚伝えられるあの忠臣蔵の快挙をなしとげた。陽の照りつけるまっぴるま、うっすらともっている無用の行燈では決してなかったわけ。

 若しも、わがヨシオちゃんが、何かしら大石さんに似通った印象を与えるようなことがあったとしたら、これはヨシオという名前だけの偶然ではないかも知れない。仮にも、ただの行燈だの提燈だと思う人があったとしたら大間違いなので、あのふんわりとした、柔和な表情の奥に、すべてを見通す鋭い観察力と、あらゆる場合絶えず何かしら学びとろうとする、旺盛な研究心がひそんでいることは知る人ぞ知る。ヨシオちゃんと親しくつきあっている人達の一致した意見である。

忘れられぬ人

 (これは彼から直接聞いた話ではない。「見てきたようなことを云うな」あとで本人におこられるのを承知で、とくに御披露します)

 日支事変たけなわの或る年、彼は朝鮮の京城で暑い夏を過ごしました。というのは彼の実父の市川九団次さんが、歌舞伎興行にかの地に渡ったとき、当時10歳になるかならずの紅顔の美少年、ヨシオ君は、一緒に連れて行って貰ったのです。

 宿舎にあてられた京城一のKホテルとかは、あまりサービスがよくなかったので、間もなく、九団次さんはヨシオ君を連れて近くのNホテルに移りました。そこで逢ったのがそのひとだったのです。

 何しろお父さんはお芝居に出ているのだし、一人ぼっちの毎日々々が、退屈でしかたがなかった彼に、この美しい朝鮮女性はやさしく話しかけ、それからは毎日といっていい程、彼の部屋を訪ねて、遊び相手になってくれたのです。キーサンの美しさと優しさは、子供心にも深くヨシオ君の胸にやきつきました。(キーサンというのは、あちらの芸者さんのことで妓生と書くのだそうです)

 それからすでに十数年もたちました。つい先日、テレビの『私の秘密』に出演した時、係の人に「とくに誰か会いたい人はありませんか?」と尋ねられたとき、ヨシオちゃんは、ふとあのキーサンのことを思い出しました。十何年か前、名前も聞かずに別れたのですが、このキーセンのことをヨシオ君は未だ憶えていたのです。「逢いたいなあ」と思いました。今はきっと人の奥さんになってしあわせに暮しているでしょう。とても美しく、やさしいひとだったそうです。

男の友達

 はっきり云って、ヨシオちゃんぐらい男の友達を大切にするひとはないとおもう。男の友情ということをしみじみ考えさせる人だ。男性の友人にくらべて、彼が女ひととつきあいが少ないのはどういうわけか僕は知らない。しかし彼ぐらい僕たち男の友達にとって、つきあいのいい人間はいない。彼は誰からも好かれ愛される性質だ。

 僕の弟の賀津雄もヨシオちゃんを大好きで大変に尊敬している。去年の夏、賀津雄はひとり軽井沢に行っていたが、急に淋しくなったとみえて、京都の雷蔵宅に深夜電話をした。折りよくヨシオちゃんも撮影のあいまだったらしく、早くもその翌日軽井沢に姿を現した。賀津雄が喜んだのは云うまでもないが、この話をあとで聞いて、僕は彼のつきあいのいいのにホトホト感心した。電話一つで、京都から軽井沢まで駆けつけてくれる人を賀津雄が好きになるのは無理もない。

 これには続きのはなしがある。二、三日おくれて僕も軽井沢へ行った。友人の樋口譲君を誘ってである。ところが東京から軽井沢までの約四、五時間が大変だった。樋口君が自動車の中で、懐かしのメロディーやらフランク永井やら三橋美智也ヒット・ソングやら、「君の耳を楽しませてやる」と称して、疲れるところをしらず、休むところを知らず、道中ずっと歌い続けたからである。

 さて、軽井沢で二日程、ヨシオちゃんや賀津雄と一緒にいて、その帰り途、同じ自動車の中で今度はヨシオが日本の古典音楽「義太夫の良さを堪能させてやろう」と申し出て、“デン、デン、デデン、奥ゥゥのひと間へェーェ”と節やら口三味線やらで、僕等同乗者の迷惑はそっちのけ、一人いい気持ちでうなり始めたのである。僕は往きは樋口君の調子っぱずれの流行歌で大分参っている。この上、喉をしめられたような義太夫を聞かされては、とても身体がつづかない。「おい、いい加減で止してくれ」と僕がどなっても、彼は落着いたもので、その目は僕をからかってわざと声を張り上げる。とうとう東京へ着くまで彼は声を振りしぼって雑音(?)を出しつづけた。その間中、僕はシャクにさわって、じっと彼をにらんでやったが、相手は平気の平左だ。このあたりヨシオという男、昔とちっとも変っていないところが、僕は口惜しい気持の中で、チョッピリ嬉しくもあった。

歴史的な大試合のこと

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 自慢するのではないが、僕の野球好きは一寸知られている。京都で同好の士を集めて『中村ゴールデンズ』というチームをつくり、少しでも閑をみては練習に余念がない。

 この夏、ヨシオちゃんから連絡があって「うちのチームと試合をやろう」と挑戦された時に、僕は一寸意外に思った。何故かといって、ヨシオちゃんがスポーツに興味があるなんて、(失礼ながら)考えてもみなかったからである。

 彼は正直に云って、運動神経はあんまり発達している方ではない。よく本も読むし映画、芝居も観る-俳優としての努力や研究心の人一倍旺盛な彼に、欠けているものが、若しあるとすれ、それはスポーツによる訓練じゃないか。これは時代劇のたちまわり(殺陣)でもプラスになることだからと、生意気のようだが、僕より一つ年上のヨシオちゃんに何時だったか「なわとびがいい」とすすめたことがあった。「女学生じゃないよ」と彼はそのとき僕の意見をあっさり一蹴したが、僕はこの誌上を利用して今度はフラフープを、ヨシオちゃんにおすすめします。僕もこの間ちょっと試してみたが、リズム感というか、運動神経を伸ばすのにあれはわるくないようだ。

 さて、野球の話に戻って、雷蔵チーム対中村ゴールデンズの世紀の大試合は、十月十二日、伏見警察学校グランドに於て、二千余人に及ぶ大観衆、両応援団に囲まれて開始されたのである。

 僕たちの試合でこれだけの見物が集まったのは今までなかったことで、それもその筈、大ていはファンの人も試合のことは知らない位だが、今度だけは、新聞では予告されるし、ラジオでも放送されるし、僕たちの方でめんくらったくらいだった。

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 試合は7-0で、僕のチームが一方的に勝利を収めた。「こんな筈ではなかったが」とヨシオちゃんも一寸がっかりした表情だったが、しかしスポーツにはげむ健康的な楽しみは、一度でおぼえたらしく、ついせんだっても「この間の試合はたのしかった。又やろうね」とわざわ云って寄こした。

 そう、又やりましょう-僕たちの二度とない青春を大いにたたえて、力一杯の試合を。勝負なんて問題じゃない。それから何処かあんまり人の見ていないところで、久し振りに相撲もね。(1958 11 20・僕の誕生日に記す)

(昭和34年1月発行、平凡増刊「あなたの市川雷蔵」より)