時代劇界の新人王 -孤独にひそむ魅力-

 大映の時代劇は長谷川一夫の一枚看板で支えられてきた。ところが、この正月は長谷川のヒット・シリーズ「銭形平次捕物控・雪女の足跡」が興行的にパッとせず、市川雷蔵がキネマ旬報社と東京映画記者会(ブルー・リボン賞)から男優主演賞をおくられた。時代劇スターで受賞したのは、雷蔵が第一号。あたかも巨人軍切り札の川上選手に代わって長嶋が主力打者として登場したときの観がある。大映はここで雷蔵を長谷川的存在に引きあげる以外に次期構想はあるまい。社長の永田雅一も彼がせびっていた『好色一代男』(井原西鶴)の映画化を内諾したりして、その腹をかためてきている。

 昨年度の雷蔵は十四本に出演して、ムラのない働きをみせたが、決定打となったのは『炎上』における好演だ。これは三島由紀夫の「金閣寺」の映画化で主人公の吾一はドモリと孤独の苦悩の果て、異常な美意識にとらわれて国宝を炎上させるという内攻的な難役であった。素材と配役に無理を感じて大映は一年間も製作を渋った。それをとうとうくどき落した雷蔵が、予想以上の成績で演じのけたのである。そして、おもしろいことには、この映画化のいきさつに、雷蔵の人間を形成する二つの要素が感じとられるのだ。

 すなわち『炎上』を監督した市川崑が「あの作品の成功は雷蔵自身が吾一に通じる孤独感をひそめていたことによる」といった言にカギがある。なるほど彼は昭和六年京都で生れて以来、生みの親と育ての親と芸の養父を二人まで持ち、生家で甘えていた期間は短い。少年期はなさぬ親から親へと転々として孤独に苦しんでいる。だが、この孤涯を通じて「たのむは自分のみ」という信念をかためたらしい。ここに根ざしたファイトとネバリが「炎上」の映画化を強行させる気迫となったと同時に、その生い立ちからくる孤愁のきびしい風化作用が、彼の人柄や芸風に吾一的な熱っぽい内攻性や、弁天小僧的な骨っぽい反発を与えたのではあるまいか。

 雷蔵が意欲を妥協させず、ズケズケと発言するのは大映の社内でも有名だ。しかし恵まれた境遇のだだっ子が、わがままをいうのとはワケがちがう。彼のライバルとみられている中村錦之助などは兄がプロデューサーであり、母がマネージャーみたいなものだから口上役に困らないが、雷蔵には親身の相談相手もないのだから、自分で最良のコースを思案して、それをストレートな発言で推進させていくほかなのである。本人してみればイヤなことだろう。また、肉親の後見者がいないのはシンどいことだろうし、さみしいことだろう。だがこれが雷蔵の強味なのだ。映画入り当時は目に魅力がないし、すっきりした颯爽感もないので、あまり期待されていなかったのが、孤涯に勇をふるった単騎突進で、ついに受賞スターとして時代劇界を先駆するに至ったのだ。

 現在の養父は関西歌舞伎の大御所、市川寿海だが二十歳になってからの関係で愛情のつながりが深いとは思えず、芸の世界も違うので雷蔵のPTAとして出しゃばる気はなさそうだ。その前の養父は市川九団次で、この人に市川莚蔵の芸名をもらって十六のとき「中山七里」の茶屋娘を演じたのが彼の初舞台。雷蔵と改名したのは寿海の養子になってからで、江戸時代の初代雷蔵は四世団十郎とならんだ立役、荒事の名人だから由緒ある芸名なのだ。今は寿海の本姓の太田を名乗っているが、生れたときは亀崎章雄(のち嘉雄)。この亀崎家も第二の養家にあたる伯母夫婦の消息も明らかでない。

 戦後の関西若手を武智鉄二が訓練して、扇雀、鶴之助を中心としたピークを築いた。いわゆる武智歌舞伎である。この時代の体験が、雷蔵の芸境を開いた原動力となっている。歌舞伎をやめたのは例によって、自分を推し進めるためのズバリ発言が大谷松竹会長の不興を買ったからで、映画初出演は美空ひばりの相手役に選ばれた新東宝配給『お夏清十郎』であった。(昭和二十九年秋)

 大映で注目され出したのは『新平家物語』の青年清盛だが、このときに激しいムチを加えた故溝口健二監督が、彼にとっては武智鉄二につぐ調教師だったといえよう。その後『月形半平太』の早瀬、『浮舟』の匂の宮と役の消化を深め、『女狐風呂』『旅は気まぐれ風まかせ』で軽快な二枚目半を、『命をかける男』の水野、『伊賀の水月』の阿部でボリュームを加え、『弁天小僧』では弾力に富む世話物演技をみせるなど、娯楽作品のうえでも、豊かな芸域を開拓してきた。

 彼の難点といえばツヤと歯切れのよさに欠けること、立回りも含めて小手のきいた器用さがないことだ。逆にみれば、それだから“いい気”にならず、いつも役と四つに組んでケレンのない人物を創造してこられたのだと思う。江戸前でない雷蔵が西鶴物に取組むのも意気さかんというべく、小器用にかたまっていないだけに、さお将来の可能性をのこしている。