雷蔵が心を許した友人というのはそれほど多くはない。日ごろはまるで銀行員のような服装で街を歩くから、雷蔵と気づく者はいない。雷蔵の友人たちにとって、そういう飾らぬ雷蔵こそ、真の雷蔵ということになるが、それでもその心情までは深くはうかがいしることができなかった。
雷蔵が映画スターとして一定の地位をきずいたとき、生母が撮影所に訪ねてきたことがある。雷蔵は生母に会わなかった。そして心を許した人物に
「あの人は太田吉哉に会いにきたのではなく、市川雷蔵に会いにきた・・・」
といった。雷蔵の出自には、複雑な事情があったらしく、雷蔵はそのことをあまり他人に語っていない。直木賞作家の星川清司は、大映の脚本家であった。東京にいて主に現代劇をかいていた。その星川に、大映の京都撮影所から突然呼びだしがかかったのは、昭和三十七年夏のことである。京都にでかけると、企画部長の土井逸雄から『新選組始末記』のシナリオを書いてみろといわれた。当時、東京にいて現代劇のシナリオを書いている者が京都に呼び出されることはなかった。星川は第一号だったのである。下鴨にある川口松太郎邸に泊まりこんで書きこんだ。近藤勇を主人公にするのではなく、脇役に据えるストーリーにしあげた。うるさ型の三隅研次もこれを気にいった。B級の異色作にしあげようというのが、プロデューサーの辻久一や三隅の考えだった。
(シナリオ64年5月号より)
ところが事態は妙な具合になった。この台本が所長室にあったのを、ふらりとはいってきた雷蔵が一気に読んでしまった。これは気にいった。と雷蔵はいい、すぐに飛行機でとんで行き、永田のもとを尋ねて、「この台本を自分にやらせてほしい」と直訴したのである。
「おまえがやりたければやるがいい」
と永田もすぐにうなずいた。社長と看板スターというだけの関係ではなく、永田と雷蔵には人間的に妙にウマがあうところがあった。雷蔵は、永田の果敢な行動力に評価を与えていてこの挙にでたのである。
雷蔵は星川に「会いたい」と伝えてきた。京都の高台にある雷蔵邸で、星川と三隅と共に雷蔵に会った。初めての出会いだった。「この脚本は一行も変えたら困る。このままやりたいと私は思っているんです」
と雷蔵はいった。
このとき星川は三十七歳、雷蔵は三十歳、そして三隅は四十三歳であった。
「初めて会ったときの印象は、わりに饒舌だということとよく本を読んでいるなということでしたね。人生観などもすでに悟りきっているような、老成の感を与えました」
と星川はいう。
この映画『新選組始末記』は評論家たちには評価が高かったが、興行としてはあたり作にはならなかった。しかし、これを機に三隅、星川、雷蔵の三人は友人づきあいをするようになった。星川はその後雷蔵の主演映画の脚本を書きつづけ、とくに親しい会話を交すようになった。
雷蔵も三人で会うと、
「映画というのはそうながくないかもしれないなあ。いつか三人で芝居をやろう。新しい仕事としてやってみよう」
と意気ごんだ。ときには
「お金を貯めて自分たちの好きな映画をつくってみたいなあ。そのときは黙阿弥の作品を現代的な目でとらえてやってみようよ」
という。黙阿弥の作品を映画にしてみたいというのは、星川や三隅にこっそりと洩らす雷蔵の本音であった。
「雷蔵は生来のすぐれた資質をもっていた。芝居をやりたいなあ、映画をつくりたいなあ、といっていたが、ある年齢になったら役者をやめる、そうしてプロデューサーになりたい、と話していた。これはらいぞうがどういうつもりでいったのか、それは不可解であるにしても、自分が納得のできる好きな作品というのは実は一本もないともいっていましたね。すでに『炎上』や『破戒』をとっているあとでしたが・・・」
星川にとってもそれは意外であった。雷蔵は劇中人物のセリフに納得できないことがあると、表向きはそれを顕わにしはしなかったが、ひそかに星川に相談することがあった。このセリフはどうもわからないんだ、というのである。そんなときの雷蔵は、役づくりでは安易に妥協したくないとおう気迫にあふれていた。
雷蔵はネオンのけばけばしい街や有名な料亭には顔をださなかった。星川と飲むときも京都のごくふつうの料亭で格式ばらずに杯を重ねるだけだった。そして、まっ正直に映画論や人生論をたたかわした。
役者になるまでの自分についてはほとんど語らなかった。少年時代に苦労したのであろうと星川も思ったが、その半面で雷蔵には少年のような感性があった。人気女優をうまくおだてて会話するよりも、掃除のおばさんや撮影所内の地味な部門で働いている老婆などにもいつも暖かいことばをかけていた。
「ぼくには母親と名のつく人が三人おってなあ・・・」
と星川につぶやいたことがある。そのくわしいいきさつを聞くことはなかったが、目だたぬ場所で懸命に働いている女性に、母親像の原点をおいているのかもしれないと、星川は思った。
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