雷蔵君と私
かって私は、市川雷蔵 − いい名前の俳優だなあ、という程度しか雷蔵君のことに関心を持っていませんでした。ある時『新平家物語』を観ました。この映画は溝口健二作品の中でも五指に入る優れたものだと思うのですが、世間ではあまり高く評価しないようでしたね。平清盛を演じたのが雷蔵君です。青年清盛はさぞやこんな人物であったことと思わせるほど見事な演技でした。これは、名前だけがいい俳優じゃないわいと思いました。
その後、私が三島由紀夫さんの「金閣寺」を『炎上』という題名で視覚化することになり、その主人公のイメージに雷蔵君をあてはめてみました。常々私はキャスティングは演出の70パーセントを締めていると思っています。原作者と脚本を書いた夏十さんに相談したところ賛成でした。ところが会社側は反対。白刃をひらめかして颯爽と活躍する美男スターに、吃りの薄汚い青年僧、しかも国宝を焼いてしまうという役をつけることは人気に影響するというのが反対の理由です。会社の機構というものは、本人の意志を無視する場合が往々にあります。私は雷蔵君と直接に話合をしようと思いました。たしか帝国ホテルだったと記憶します。雷蔵君と会ったのは、素顔の雷蔵君の印象は清盛でもなく、まして美剣士でもない、銀行員のようでした。
私は諄々とこの作品にかける情熱を説いた。どんな無理をしても出演してほしいと述べた。雷蔵君は即座に承知してくれました。一応、意欲的な題材ですから、俳優としては誰しもやってみたくなるのは当然でしょう。然し、彼は最後にこう云いました。自分はやりたい。然し会社が自分の出演を反対していると云うのだから、真向からそれを押し切ろうとすると駄目になる可能性もあります。会社側も意志をどうやって曲げるかを考える必要があります。その為には少しは会社の云い分も聞きましょう。肝心なことは実現すればいいのですさかい(正確なところは忘れたが、内容は大体こんなことでした)この合理的な答えに、単純幼稚な情熱論を振りかざしていた私は感嘆してしまいました。
以上は映画製作のちょっとした裏話ですが、雷蔵君の合理性は、現代に一番大切な「良識」に通ずるものがると思います。その良識が俳優としての雷蔵君の未来にどのような影響するかは彼自身の問題だと思いますが、私は大きな期待をかけています。
私は『炎上』について『ぼんち』そして現在『破戒』を雷蔵君と組んで製作しています。
(よ志哉28号より)