二十六年六月、八代目市川雷蔵を襲名した嘉男は、大阪歌舞伎座の「白浪五人男」の赤星十三郎で襲名披露を行った。いまは他人の子となった雷蔵の新しい首途を、九団次夫婦は涙なしには見られなかった。
「これでええ、これでよかった、やっぱり寿海はんに貰うてもらってよかったんや・・・」
とめどなく流れる嬉し涙の目と目で、夫婦は頷き合うのだった。
それから三年目の二十九年の夏、雷蔵は更に新しい世界へ飛躍した。大映からの一年に及ぶ誘いに、遂に父寿海を説き伏せて契約したのである。若い雷蔵は歌舞伎の世界に安住することに、時代から取り残されるようなあせりを感じたし、映画が大きな意味の演技者としての幅をひろげる勉強になると思ったからだった。一年間のうちに、映画界での地盤もかたまった。
『新・平家物語』撮影中のある一日、雷蔵は京都府立病院に長らく入院中の九団次を見舞った。悪性の動脈癌という疾患だった。
「『新・平家』を撮り終るまでには、きっとお父さんも退院できまっせ。そしたら二人で見るのや。まっさきにお父さんに見てもらうんや」
雷蔵は九団次の痩せた肩をさすりながら、つとめて明るくいいかけた。
「その日が楽しみやなあ」
弱々しい声だった。いつも忙しい撮影のひまを盗んでの見舞いも、『新・平家』にかかってからは思うにまかせず、今日久しぶりに来て見て、予想以上の衰弱に胸もつぶれる思いだったが、いつになく具合がよく、熱もないということで、子としての欲目だったろうか、死ぬ人とも思われず、つい訊かれるまま、仕事の話に身が入るのだった。
「僕はいま『新・平家』に、ありったけの情熱をそそいでやってます。監督の溝口先生のおかげで、いままでの演技に対する考え方が全然まちがってたことに気がついただけでも、大した勉強やった。こんどこそ、お父さんにほめてもらえる自信がおますのや」
九団次は満足そうに、幾度も頷いてみせた。
ベッドの周囲の壁には、雷蔵のスチールやブロマイドがベタベタ貼りめぐらされている。ただひとり病床にある父の、寂しさ心細さが、手に取るようにかんじられた。
九団次は息子の気持を早くも見抜いてか、そのブロマイドを指さしながら、「お父さんは、お前にかこまれているさかい、ちっともさびしゅうはない。安心して、一生懸命やるんやで」と逆に慰めようとする。
母のはなは、二十七年の一月に、胃の病がもとでこの世を去っている。たとえ血肉のつながりはなくとも、この父こそ、いまはただ一人の肉親だと雷蔵は思っている。
「お父さん、仕事が追いこみに入ったよって、とうぶん来られんけど、その間にうんと元気になっててや、よろしいな。『新・平家』を一緒にみるのや。たのんまっせ」
わかれぎわに、雷蔵はひしと父の手を握りしめた。
「よっしゃ、そっちもがんばってや。ええな」
握りかえす父の掌のあたたかさが、夜更けの街を帰って行く雷蔵の掌の中に、いつまでものこっていた・・・。
『新・平家』の撮影は終ったが、息つくまもなく次回作品『いろは囃子』『怪盗と判官』と連続撮影に入り、しかも『新・平家』の封切りに先立つ宣伝のために、撮影日程のひまを縫って各地の封切館に挨拶廻りに行かねばならなかった。父の病状が思わしくないのを知っていながら、どうにもならなかった。
「九団次さんはもうたすからないよ。それだけはお前も覚悟しておきなさい。仕事を投げ出して見舞いに行きなさいとは私も役者としていえない。九団次さんもそれはわかっている。だから死ぬと知っていて、ひと言もお前に逢いたいとはおっしゃらないのだ・こんやはお養母さんがついているから、安心しなさい」
雷蔵に代って、忙しい舞台の合間にわざわざ大阪からの電話だった。雷蔵は深夜の撮影所の電話口で立ちすくんだまま、声を忍んで泣いた。
それから三日目、あの夜の別れ以来、二度と看ることもできないまま、九団次は帰らぬ人となった。
危篤のしらせで扮装のまま撮影所から駈けつけた雷蔵の手を握り、
「とうとう『新・平家』は見られなんだけど、お父さんにはお前の意気ごみで、立派に清盛をやりこなしてるのんがちゃんとわかっとる。お母さんにええ土産話やと思うてる。しっかりやって、立派な役者になるんやで。太田のお父さんやお母さんに孝行してな・・・」
名声にかがやくわが子には満足の涙を、寿海夫妻には感謝のまなざしを送りながらの、やすらかな臨終であった。雷蔵は声をあげて、腹の底から泣きに泣いた。
「お父さん、どうか見ていて下さい。必ずもっとましな演技者になってみせます、お父さんの子は、決して誰にも負けません!負けませんとも!」
慟哭しながら、去りゆく霊に呼びかける息子を、養父母の慈愛深い瞳が、いたわるように、いつまでもみつめていた。
(倉田三千夫
スタアグラフ市川雷蔵より)
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