忘れ難き市川雷蔵の魅力

 市川雷蔵は、昭和二十九年に映画デビューし、昭和四十四年までの十六年間に153本(158)の作品に出演、三十七歳で没した。戦後日本映画界屈指の大スターであった。没後七年を経た今日回想しても、彼の艶冶なスクリーン上での容姿は、忘れ難い。彼は梨園の名門である養父市川寿海の御曹子として、少年時代から歌舞伎界で育った。この世界での修業が、時代劇を中心とする映画畑でのスターとしての彼の、個性と魅力を形成する基盤となっていったことは、異論のないところであろう。

 歌舞伎界育ちで、幼時から舞踊の修練を経て、仕種の一つ一つ、立居振舞の一挙手一投足に、えも言われぬ艶と張りを持ち、舞台映えのする顔と肢体を持った役者、それをステージからスクリーンへ移植するのが、何よりの時代劇スター作りの秘訣であった。ことに、居ながらにして匂うような、若さと品格と美貌を持った、梨園の名門の御曹子などはまさにその理想であった。

 そして、わが市川雷蔵は、総ての点で、その要件を満足させる、逸材であった。もっとも、その資質が、本当の時代劇映画スターとしてスクリーンの上で熟し、匂やかな香りと色とを発散させるようになるまでには、舞台とはまた違う、映画の世界の水に、その肌をさんれさせる時間が必要であった。

 昭和二十九年に大映映画『花の白虎隊』で映画デビューした彼が、いくつもの白塗りの二枚目侍役や股旅者役などを経て、ある個性の開花と演技開眼といってもいい境地にたどりついたのは、名匠溝口建二監督による『新・平家物語』あたりではなかったであろうか。デビュー後一年目の昭和三十年である。世界に鳴る名匠溝口建二の映画としては、正直いってこの作品、必ずしも傑作とはいい難い。むしろやや生硬で、几帳面すぎる出来上りの、歴史ドラマ的時代劇であった。しかし、青年平清盛を演じた市川雷蔵は、りりしく、かつ美しく、時代に反抗して立上った若き武士の風貌を、カラーの画面に生き生きと示して、余すところがなかった。

 その時私は「ああ、新しい色彩映画の時代劇の世界に、みごとに花咲かせたスターの誕生だな」ということを、実感したものだった。同じ大映の大先輩時代劇スターの長谷川一夫、あるいは、阪東妻三郎、大河内伝次郎、片岡千恵蔵、嵐寛寿郎などなどをはじめとして、日本映画界に時代劇スターは数多い。しかしそれらの人々は、考えてみると「黒白映画の時代劇スター」というイメージの人たちであった。

 名前を聞いた時、私たちファンの脳裏に浮び上るのは、黒白フィルムの中の彼らの顔であり姿なのである。しかし、市川雷蔵は違うのである。その名を聞いて、私たちが思い浮べる彼の顔かたち、姿は、美しいカラー画面のそれなのである。このへんが彼の、戦後日本映画の時代劇スターとしての、特質の一つといってよかろう。

 しかもそれは、彼が育った大映の、どっしりと骨太に組まれたセットで撮影された、しっとりとした日本的色彩の艶と鮮やかさを滲ませた画調に、すこぶる似つかわしいものであった。大映、特に彼の育った大映京都撮影所は、日本でいちばん古い日活からの伝統を持つ名門時代劇製作所である。戦後の日本映画の名声を、海外に高らしめた『羅生門』『地獄門』『雨月物語』といった作品が、総て大映京都作品であったことも、故なしとしない。

 市川雷蔵の時代劇スタートしての個性と魅力は、実に幼時から歌舞伎界で養成された資質を、この伝統ある時代劇映画の名門撮影所の土壌の上で、新しい時代のカラー画面に、絢爛と花開かせたのだ、ともいえるかもしれない。それからの彼は、ぐんぐんと大映を背負うスターとしての地歩を築いてゆくことになる。