市川雷蔵は昭和二十九年大映の「花の白虎隊」でデビューした。ひきつづき長谷川一夫と共演の「銭形平次捕物控・幽霊大名」、京マチ子と共演の「千姫」と順調な滑り出しで映画スタアとなり、四本目で早くも完全な主役をかちとったのが「潮来出島・美男剣法」であった。

 彼は昭和六年八月二十九日生まれと云うから現在二十五歳と何ヶ月かだ。関西歌舞伎の脇役の家に生まれ長じてそのまま歌舞伎の世界に入り、寿海の養子となった。寿海の目に止ったのだからスジが良かったに違いない。

 雷蔵が歌舞伎にはいったのは、二十一年だが、その頃の話でこんなのがある。雷蔵たち三人の関西歌舞伎の若手、と云っても二十歳前の青年と少年の合の子が、京都のさる長老シナリオライターの処へ会いに行った。まあ映画にはいりたいと云う下心があったのだろうが、当時は経済事情も最悪の頃で、今では想像もつかない恰好だし、また痩せっぽちニキビだらけやらの大変な代物だったのである。勿論そのシナリオライターは何かかんか云って、それとなく帰したのだが、それから数年、雷蔵が映画入りしてから「先生、先生とお目にかかるのはこれが二度目です」「・・・」「実は・・・」と云うことになって、あの末席にちょこんといたのが雷蔵だったのか、と吃驚させられたということだ。今ではこの先生も雷蔵を大のひいきえで、彼のためにシナリオを何本か書いている。

 彼のデビューした昭和二十九年は、映画界として大変な年で、東映が新作二本立を始めて、質より量の戦いに導いた時である。この東映が連続時代劇活劇を製作するのに、中村錦之助と千代之介の二人を映画入りさせ、忽ち二人をスタアに仕上げてしまった。既成スタアではどうしても若い層にアピールしなくなっていたのだ。女優は年々ニュー・フェイスが生れるが男優に若手がでないので、組み合わせるのが不自然にまでなっていた。こんな状態で、青年時代劇スタアが出ないのが不思議な位だったのだ。その秋に映画スタア市川雷蔵が生れた。東映は新しい子供のファン層に中村錦之助を組み合わせた。錦之助の演じた役は、子供向きのスーパーマンであり、綺麗事スタアだった。

これに対して大映の雷蔵出演作品は、普通の大人向映画であり、知性を備えた主人公を演じた。はっきりとこの二人は異なった階層のファンを持つことになったのである。そして雷蔵の地味ながら根強い支持層が順次形づくられていった。

 雷蔵は一人立ちで映画に主演するようになると、自らも希望し、研究して「次男坊シリーズ」を続けた。知性的な風貌のやくざな主人公が実は武家を嫌って、また義理を立てて出奔していると云う境遇はぴったりしていた。しかし、芸術作品と云うわけにはいかない。彼の転機は「新平家物語」の青年清盛の役で来た。

 「新平家物語」は大映がその社格に物を云わせるべく、壮大な規模で構成されていた。グランプリ監督溝口健二演出の線は早くから決まっていたにも拘わらず、主人公青年清盛の俳優がクランク間際になっても決まらなかった。自薦他薦の俳優の名が幾人も挙げられ。製作本部には配役の投書が山積みした。この時永田社長の英断で雷蔵に決まったのは、映画人野球大会の時だった。彼がバッターボックスにはいるや、満場騒然たる拍手と声援だったからだ。そしてこの「新平家物語」で優男雷蔵が野生児清盛をたくましく演じ、絶賛を博したのである。

 こうして広がった雷蔵の芸域は「大阪物語」「朱雀門」から軽妙な「弥次喜多道中」までの深さとなっている。「朱雀門」で演じた有栖川若宮は他のどんな俳優も考えられない程の適役であり、熱演だった。悪あがきする時の権力者幕府の横ヤリによって、生涯の伴侶と思い定めた皇女和ノ宮を奪われた悲運の公卿に扮して、その切々たる哀感の中に気品を失わぬ名演技ぶりは、まことに観る者の涙をそそらずにはいなかった。日頃点がカライ新聞の映画批評欄がこぞって雷蔵の若宮役を賞めたたえたのも無理のないところであった。

 また林成年と組んで時折披露するコミックな演技ぶりも、これが二枚目として売り出された若手スタアかと、眼を見張らせるのに充分なものがある。常に知的な哀感をほのぼのとにおわせている彼が、ガラリと役柄を変えて、しかもピッタリと、スットボケた味を見せてくれるのだ。若手スタアとしては珍しい、そして尊重されなくてはならぬ役者度胸とでも云うべきだろう。

 彼は今「源氏物語 浮舟」の匂宮を演じている。演技者市川雷蔵として。またその後すぐ「二十九人の喧嘩状」で吉良の仁吉を演ずるだろう。これはスタア市川雷蔵としてだ。彼がその双方を踏まえて精進する時、第二の長谷川一夫となるに違いない。

 二本立以来デビューした若手時代劇スタアのうちで、演技的にも、人気も、最も生命の長いのは市川雷蔵であることは疑う余地もないところである。(57年6月5日発行)