失敗談が一つある。といってもこの話は、雷さんがやったのではなく、あわて者の私に責任がある。
「華岡清洲の妻」が完成して、名古屋へキャンペーンに出掛けたときのことである。共演の若尾文子さんと高峰秀子さんは東京から来られることになり、雷さんだけが京都からということで、私もおともした。午後三時すぎまで撮影があって、急いで支度をして京都駅へ車をとばしたのだが、新幹線のガード下を走る近鉄の踏切にちょうどひっかかってしまい、乗るはずのひかり号は頭の上を通りすぎて行った。そもそもそれが原因となって、あと五分、あと三分、あと一分・・・ああだめだ、と気をもんだせいか、やっと一台遅れで乗った電車では、すっかりほっとしてしまい、ビュッフェでコーヒーを飲みながら、ついついしゃべり込んで、名古屋に着いたのも気づかず、発車間際になってびっくり仰天、ドアの締まる寸前にとび降りた。そして舞台挨拶も試写会も盛況裡に無事終了、支社の方たちにも見送られて再び名古屋駅来て、はっと私は気がついた。
「あのォ、雷さん、来るときに乗った電車の中で、コーヒー代払いましたか・・・」
払っていない。もちろん私が払うことになっていたのだから。さあ大変、天下の市川雷蔵が新幹線のビュッフェでコーヒー二杯の飲み逃げをしたのである。私は真赤になって顔面硬直、胸はドキドキ、頭はガンガン。どうやって電車に乗ったのか、見送りの人たちに挨拶したのか、とにかく、電車が走り出すとすぐにビュッフェにとび込んで、係の女の子に事情を訴えた。まったく訴えたのである。
ところが、電車毎に担当の店が違うとかで、分らないから代金はもらえないというのである。おまけに、そんなかたいこといわんでもいいじゃないですかといわれた。結局、払わなかったのだが、それを座席に帰って雷さんにいうと、
「あほやな、お前は」
とケイベツされてしまった。そして雷さんは例のいたずらっ子のような笑いを浮かべてシートの中で小さくなってしまった。あのとき、雷さんが笑ってくれたので、どんなに私は救われたか、でも本当に申し訳ないことをしたと今でも思っている。
(筆者は当時大映京都宣伝部員、映画では「大殺陣雄呂血」「子連れ狼 冥府魔道」「夜叉」「あ・うん」など脚本を手がけ、テレビ映画「座頭市」「影の軍団」「大奥」「時代劇スペシャル」などを執筆。)