彼とは、とくに親しかったわけではないけれども、一時期「上方風流(かみがたぶり)」の同人だったこともあり、私の周辺で"スタア"と呼ぶに最もふさわしい人として、市川雷蔵を選んだ。

 昭和6(1931)年8月29日生まれで、父は関西歌舞伎の名脇役だった市川九団次である。端敵を得意とし、憎々しさの中に愛嬌があって、中村松若とコンビで演じた「伊勢音頭」の大蔵、丈四郎など目に残っているが、一世の当たり役は郷田悳の「天野屋利兵衛」の悪与力で、アクの強さに独自の味があった。しかし決して恵まれた地位ではなく、息子に同じ道を歩ませる気がなかったのか、名門の天王寺中学(旧制)に進ませた。それが、終戦という予測せぬ社会の急変で、自分の前名の莚蔵を名乗らせ初舞台を踏ませることになる。昭和21(1946)年、十五歳の時だが、同じ頃に同年代の中村霞仙の息、紫香、嵐璃?(王偏に玉)の息、?(王偏に玉)蔵が相次いで登場したのを見ると、劇壇の中にそうした流れが生まれたのだろうか。

 初舞台の頃は主に女方、持ち前の美貌は光っていたが、名門の出でないため腰元などの役が多く目立たぬ存在だった。そんな彼にチャンスを与えたのが"武智歌舞伎"である。第一回の「野崎村」で久松に抜擢され、扇雀(現鴈治郎)のお染とのラブシーンは、女の袂は女性性器を意味するという武智理論による刺戟的な演技で話題になったものの、女方から転じて「陣屋」の熊谷に挑んだ鶴之助(現富十郎)や、お染と藤の方で瞠目の変身をとげた扇雀の蔭に隠れて、さほど注目されなかった。彼が輝きを見せたのは京舞井上流振付による「妹背山道行」の求女、同じく「宇治川」の源太を勤めてからで、その素質を買われて26(51)年には市川寿海の養子となり、八世雷蔵を襲名した。けれども、その頃から関西歌舞伎が低迷し始めて、ついに29(54)年に大映に入社、歌舞伎を離れ映画俳優へ転進する。一足先に同輩の嵐鯉昇が本名の北上弥太郎(朗)で松竹からデビュー、紫香や?(王偏に玉)蔵はとうの昔に廃業していた。

 当時たまたま毎日新聞京都支局の芸能担当記者だった私は、取材のために西の京の彼の家を訪問した。なぜ映画界入りしたのか、の問に対し、顔馴染みの心やすさもあったのだろうが、「歌舞伎ではいくら頑張っても若いうちは誉めてもらえん、映画は若いうちやないと撮れん、そやから年取ったら歌舞伎に戻って芸術院会員になるんや」と半ば冗談、半ば本気で答えてくれた。デビュー作は「花の白虎隊」。その後、間もなく溝口健二監督の「新平家物語」で主役の清盛を演じてスタアの座を確固たるものにした。以降『大菩薩峠』『眠狂四郎』や『炎上』『陸軍中野学校』など時代劇、現代劇を問わぬ活躍は周知のとおりである。もし彼が健在だったら、果たして歌舞伎の舞台に戻っていただろうか?かえすがえすも早世が惜しまれてならない。

註1:「上方風流(かみがたぶり)」 昭和38(1963)年頃に桂米朝、茂山千作、片山慶次郎ら上方伝統芸能の重鎮たちが中心となって結成された同人グループ、または同名の雑誌(1963年創刊)を指します。古典芸能の再興と交流を目的に、パロディ劇や研究誌の発行など精力的な活動を行いました。

註2:山田庄一 

 古典芸能(歌舞伎・文楽)演出家・評論家。1925年大阪船場の旧家・水落家に生まれ、幼いころから歌舞伎・文楽など古典芸能に親しむ。1947年京都帝国大学医学部薬学科卒。

 岐阜薬科大学助教授、毎日新聞記者を経て、1966年より国立劇場勤務。開場にあたり創立メンバーとなり、開場後は主に文楽公演の制作を担当する。調査養成部部長、国立劇場理事(国立文楽劇場担当)、国立能楽堂主幹などを歴任。

 1991年定年退職。以後も歌舞伎・文楽の制作を多数手掛け、古典の復活上演、新作の台本制作にも取り組む。

(上方芸能05-6号)