人間雷蔵秘話

「・・・只御知らせ致し度い事は、現在生母は健在で而も幸福に暮している事を御安心頂けば幸いです。生後六ケ月に於て、涙の生別の止むなきに至り、張り切る乳房を押え涙の日日は、遂病床の身となって忘れる事に努力して来た母、いじらしき限りでありました。若し会って頂ける御都合をつけて頂けるなればこの上なき悦びであり、夢かとのみ想うだに目頭を熱くいたします・・・」

私はこんな手紙を初めて出しました。翌日の夜早速電話があり、私は太田です、ただいま手紙を拝見しました、といいます。私は太田という姓を思い出すことが即座に出来ませんでした。「いや雷蔵です。今撮影から帰って手紙を読ましてもらったところです。その人は私の母に相違ありません。一席設けたいと思いますから会わしてください」とのこと。

私は思いがけない早い返信と生母への心の準備も考え、私の家へ両者を招き雰囲気を温めることを考え、その旨を伝えたところ直ちに了承を得、日時は氏の都合のよい日を定めてもらい、翌々日七時と約しました。

当日大阪より呼び寄せた伯母は三十数年目のわが子との対面に躍る胸をおさえ、その心境たるやたとえようもなかったのであります。ちょうど七時、撮影の都合で一時間遅れることをお許し願いたいとの丁寧な電話があり、その行き届いた行為に、会わぬ前に人柄を知ることができました。

八時きっかり、元気のよい声で訪問されました。「伏見は撮影によく来ますから大体の見当はついてました」とほがらかにいいながら家内に二階に案内され、雑談しながら時を見計らって対面することにしました。

その瞬間たるやまったく演劇以上の場面であり、本人ですら現実と演技の心境があまりにも違い、よい体験を得たと洩らされたほどでした。

話題は幼少から現在までの、つきぬ物語り、中学入学の際、戸籍を見て初めて生母は富久という人であることを知ったことなど、時の過ぐるを忘れたほどでした。

生涯孤独の宿命に生まれ、自分は自分で道を拓き、自分で始まり自分で終わるやも知れぬが、現在与えられた世界を自分のものとして精一杯打ち込むことのみです、と力強い言葉で言われ、物心ついた頃から芸能界に疑問をもち、この道に入ることは全然考えていなかったこと、大阪天王寺高校から東大へとエリートコースを目ざし、もしその頃の考えを実現していたならばどこかの課長くらにはなっていたであろうこと、また、この世界に入った現在、自分に与えられた転職として人に知られる身となり何の悔いもないし、将来名門寿海の子として面目にかけて精進すること、など母にきかせるように淡々と語ってくれました。

生母がこのたび京都に墓地を求め石碑を造った話を聞き、自分の菩提寺が近くなのでせめて死後お参りはいたしますよと約束しながらも、今ははかなくも生母が先に墓前にぬかずく身になろうとは・・・・・

将来ある若き名優市川雷蔵は再び会うことは出来ない。私どもはただただ安らかにとご冥福をお祈りするとともに、残されたご遺族に対し心から今後のおしあわせを祈るものであります。(吉田与一:富久宝醸造元常務)