最後の侍・市川雷蔵

 さて、こうした作品の人気が下火になっていった三十八年、新人池広一夫はてれることなく古典的股旅物の決定版『沓掛時次郎』を作り、大映股旅映画を本来の姿へと戻した。池広一夫はその前に風刺喜劇の傑作時代劇『天下あやつり組』(南条範夫原作)を撮っており、すでにその才能は多くの人が知っていた。『沓掛時次郎』は、それまでの池広作品とはぐっと趣きをかえリアルで殺伐とした股旅映画となっていた。全編六回の殺陣シーンにはそれぞれ工夫をこらし、望遠レンズやシルエットを巧みに生かし、現実的な殺しの場面を作った。主人公を無敵のスーパーマンとはせず、常に逃げながら斬り、建て物や木など立地条件を生かして頭脳的に敵と闘うという知的な殺人者にした。

 しかし、惜しいかな一番大切な「情感」を、原作にないおきぬの義理の親を登場させることによって親子の情愛にすり変えてしまったため、薄っぺらなものになってしまった。この作品はあくまで時次郎とおきぬとのやるせない愛情に重点を置かなければならないのだ。その点をのぞけば、確かにこの作品にはポエジィがあり、流れ者の孤独な陰があった。ラストシーン、おきぬの子供太郎坊を義父にあずけ、去っていく時次郎。その時次郎を見送ろうと柿の木に登り「おじちゃん」と叫ぶ太郎坊。ふりかえってはいけない、ふりかえってはいけないと足を早める時次郎の耳に「おじちゃん」「おじちゃん」の声が、ついに「おとっちゃん」となってとび込んでくる。バックに橋幸夫の唄が流れる。すねてなったか 性分なのか それとも女のせいなのか すまぬすまぬと言う眼がつらい ご存知『シェーン』の日本版。

 続く『鯉名の銀平』(田中徳三)も暗く沈んだ股旅映画の傑作である。雷蔵の孤独な股旅やくざぶりはますますみがきがかかり、女や土地に対する執着が悪人に対する怒りとなって爆発する。次の『中山七里』(池広一夫)でも、恋する女を殺された怨みをと落胆が主人公を別人のように変え、冷たくとぎすまされたテロリストの陰影をただよわせる。ここでも池広は、ヒーローを無敵の男とはせず、延々と逃げながら一人ずつ殺していくという方法をとる。こうした殺人者の孤独性がストイックな武士道と直結することによって、同じ年の三十八年、大映時代劇の頂点『斬る』(三隅研次)となって完成するのである。

 一方、市川雷蔵の前半期の作品の中ではずすこいとのできない作品が三本ある。三十三年の『弁天小僧』(伊藤大輔)、三十四年の『薄桜記』(森一生)、三十五年の『切られ与三郎』(伊藤大輔)である。

 『弁天小僧』と『切られ与三郎』は共に歌舞伎の素材を映画化したものであり、歌舞伎の様式美と映画のアクション性がみごとに調和して時代劇のある一つの可能性を示してくれた。

 『弁天小僧』は不良にしかなれなかった子供のすねぶりと、愛しながら受けいれられない親との愛情の交流に、美しい大江戸への愛着をからませ、わだかまる不満をどうしようもできずにいらいらする庶民の感情を、熱っぽく描いてみせる。悪こそ下層社会の人間達に許された自己表現の最後の手段だとうそぶく白浪五人男の面々。しかし、どんなにあがいてみても、結論は死でしかありえないという暗い見通しと迫り来る土壇場に、やけくそになって空しく暴れてみせる極道達。そして、橋、屋根、水、石段、路地、やりてばばあ、矢場、コマ遊び、とりはずしの階段、蝶つがいの戸板、赤い鳥居が無数に並ぶ間を走りぬける殺陣、そして父を前にして、子と名乗れず、物干場で捕手にかこまれて自害して果てる弁天小僧菊之助の壮絶な最期と、クライマックスに突然、挿入される劇中劇「知らざあ言って聞かせやしょう」のくだりのたたみかけの巧みさなど、時代劇に欠かせない道具だてがズラリと登場し、それぞれがみごとに生かされ、それらがすべて、登場人物のあわれさを強調する重要なポイントとなっている点、伊藤大輔のなみなみならぬ演出力をあらためて思い知らされた作品である。

 『切られ与三郎』は与三郎と与三郎をめぐる三人の女、恋人のお富(淡路恵子)、義妹のお金(富士真奈美)、女役者のかつら(中村玉緒)との壮絶な恋物語である。江戸のろうそく問屋の養子である与三郎は、下に実子が生まれたので、不幸なめぐりあわせに涙しながらも家を出る。こうして彼の女性遍歴が始まる。人間社会のめぐりあわせの悲しさが、美しい画調によって切々と表現される。ラストは傷つき、ボロボロになった与三郎がやさしい義妹のお金と手をとりあい、霧にかすむ夢の世界へ、ひっそりと昇っていく。甘い感傷の中に、人間社会のきびしさがチョッピリと出ていた。画調は美しく未来的ではあるが、このラストシーンの暗示するものは「心中」である。伊藤大輔の狙った下層庶民の絶望的救いのなさは永遠的な怨念の姿であり、多分に女性的である。こうした下層庶民の悪の論理は、次の時代には強靭なヒーローの出現によって悪の正統化はとエスカレートする。非情なまでの悪業の積み重ねがネガティブな人間性讃歌になっていくのである。つまり伊藤大輔が先鞭をつけた、庶民階級の悪の論理は『不知火検校』を間にはさみ、三十七年『座頭市物語』と続き、三十九年『駿河遊侠伝』、四十二年『やくざ坊主』とエスカレートし変型していくのである。

 さて、もう一つの作品『薄桜記』も、突如登場した傑作であり、三十五年『疵千両』『大菩薩峠』、三十七年『斬る』(三隅研次)、『剣に賭ける』(田中徳三)、三十八年『眠狂四郎殺法帖』と続く、予言的な作品である。そして、これらの本格的な時代劇が、次の大映時代劇の黄金時代を作り出すのである。

(76年9月白川書院刊「アウトローの挽歌」より)