戦後派台頭から二スケ二ゾウ
本当の意味で戦後派スターが活躍するのは30年代ということになる。
東映娯楽版と称する『笛吹童子』『紅孔雀』等の連続もので売出された東千代之助、中村錦之助は、アッいう間に少年たちのアイドルとして人気を確立したが、一年ほど遅れてデビューした大川橋蔵と大映の市川雷蔵、この四人が“二スケ二ゾウ”といわれ、三十年代の若手トップスターだった。
千代之助は日舞の師匠だから線のキレイなのは当然だが、力強さとか若い溌剌としたところに欠けた。型にばかりとらわれていたせいかもしれない。何年やっても生硬なところが抜けなかった。立回りは腰だというが、千代之助は腰がきまらなかった。
『はやぶさ天狗』で松平長七郎に扮し「葵真流いかがでござる」などとやらかすと失笑を買った。せっかく人気のヒーロー鞍馬天狗をやらせても、月形竜之介の近藤勇とはあまりにも段違いで、「卑怯のようなれど・・・・」とピストルを出して対決を避けると、本当に天狗が弱そうに見えてイメージダウンだった。同じ場面でもアラ寛なら逃げるのではなく、理由があるのだと見る者も納得してくれる。このへんが貫禄の相違、年季が入っているいないの落差といえる。
愁いを含んだマスクからいって『佐々木小次郎』のような悲劇の剣士などがはまり役だったが、これとて千代之助を大スターに押し上げるバネにはなりきれなかった。
錦之助は千代之助と違って“花”があった。歌舞伎畑から来たにしては天衣無縫で、カンもよく、立回りはメキメキうまくなった。はじめは尻を引いて刀を前に出し低く構えるイカサナイポーズだったが、それを矯正して華麗さに加えてスピードのある立回りを見せるようになった。
『獅子丸一平』『源氏九郎颯爽記』『紅顔無双流』等、身分の高いヒーローのときは格調の高い、気品のある立回り、二枚目半的な森の石松や桶屋の鬼吉などのときはガムシャラな立回りと、器用に使いわけたし、『宮本武蔵』を五年がかりで完成させた過程を見ても一作ごとに長足の進歩を感じさせた。
錦之助は東映をやめて独立プロを興したりして苦労したが、殺陣師尾型伸之介との合作で、テレビ時代劇『子連れ狼』『破れ傘刀舟』等、本当に自分の“型”を持つようになった。東映時代はまだそれが確立されておらず、目立つ特徴はない。むしろ素直な立回りといってよかった。ただ『宮本武蔵』以来、豪快さを増し、立回りのスケールが大きくなったことは特筆されていい。
大川橋蔵は錦之助ほど元気はないが、身ごなしが柔く、流れるような舞うような立回りだ。女形出身だけに、優美なかわりにナヨナヨした女性的な風情があったけれども、徐々にキビシさも出て来て、特に『新吾十番勝負』『新吾二十番勝負』等で、葵新吾が剣士として成長することがソク橋蔵の立回りの進歩となった。
“若さま侍捕物帖シリーズ”で“一文字崩し”という型を身につけた。これはパーッと華やかな雰囲気を持つ橋蔵にはふさわしいものだった。しかし橋蔵の場合は型は美しくとも、たくましさとか力強さが出ないのが欠点だ。大勢を斬りまくるときなど、腰がクネクネするみたいなのも気になる。長谷川一夫の流れである。“軟派の剣”を継ぐ唯一のスターだが、東映などの舞踊のような美しい立回りが否定され、リアルな殺伐さを伴った殺陣が受け入れられる状況の中ではちょっとカッタルイ。長谷川の場合と同じく、捕物帖に活路を見出したのは賢明といえよう。
市川雷蔵は“柄”はないのに骨っぽかった。メリハリのきいた演技、品位と格調、いかにも“サムライ”らしいスタイルだった。雷蔵の剣は歌舞伎出のせいでテンポが遅く、硬さもあってリズミカルな立回りではなかったが、凄壮な雰囲気が出てきたし、スピードではいま一歩だけれども、緻密に計算された合理的な立回りというように思わせた。それは雷蔵のインテリジェンスによるものかもしれない。『忍びの者』は忍者ブームのきっかけとなったが、雷蔵の暗さは影とか忍びに適するキャラクターだし、眠狂四郎や机竜之助、あるいは『斬る』の主人公にしても、暗い宿命を背負った剣士の孤愁というものが、剣の上にもにじみ出ているかに見えた。
眠狂四郎の“円月殺法”は下段に構えた刀を回して徐々に円を描き、敵の闘魂を奪い一瞬の眠りみ陥らせて斬るというもので、雷蔵の場合は高速度撮影で刀が何本にも見えるようなトリックを使っていた。欲をいえばもっとスピードがあるとスゴみとか鋭さが出ただろう。
雷蔵は44年、三十八歳で夭折した。これからアブラが乗って円熟した芸を発揮しようというときだったのに惜しいことである。(永田哲郎)
(永田哲郎 78年1月10日日本ブックライブラリー発行「日本映画戦後黄金時代・全30巻」第24巻「戦後剣戟スターの殺陣」より)