「新・平家物語」出演の価値
ここ足かけ八年の市川雷蔵演技歴をふりかえって、先ず、彼から、新しい立役の美を掘りだした人は、と考えてみると、私たちは、どうしても、「新・平家物語」の溝口健二を挙げなければならいようです。あの、眉目たくましい青年清盛は、雷蔵をめめしい二枚目化から食いとめた第一石として私は今こそ認識し直さなければならない演技だったと思います。私はのちの、「日蓮と蒙古大襲来」における青年時宗、「山田長政・王者の剣」における雷蔵の青年王を、それらの作品中、他の誰よりもすぐれていたできばえと推したい。その基礎はすでに「新・平家・・・」にあったと、考えることはできないでしょうか。「若き日の信長」「大江山酒天童子」にしても、同じことだ。
雷蔵の“天与の品格の底にあるたくましさ”それが。これらの作品で掘り出されたとすれば、いっぽう、その品位の中にひそむナーヴァス(神経的)なもろさ、美しさを、正面に押し出した作品として、私は「朱雀門」「忠直卿行状記」の、二本の森一生監督作品をあげたい。とくに前者で彼が演じだした、悲恋の貴公子有栖川宮熾仁親王は、私たちに、改めて市川雷蔵がその身にそなえた京風の清らかさと威厳を、再確認させたできばえであった。
「忠直卿」は、主人公の現代劇的な心理の起伏が、作品そのものの定石時代劇的な運びにかくされた形になって、(彼は一つの念願であったという)この役は、必ずしも十分に生かされたとは云い得ない。しかし、この人が、そのすべやかな丸味の底にもつ近代人的な神経のするどさは、ここにはっきりうかがうことができる。雷蔵さんは、明らかに、自分というものをつかんだうえで、この悲運の若殿に取組んでいることが、まざまざと感じられるのです。
これら、高貴な者のディグニティ(威厳)、といった役柄のいっぽう、雷蔵はまた、そのうるわしさを、衣笠貞之助監督による、それこそあであやかな明治情緒ものに生かした。更に一転して、彼はまた長老の代表としての伊藤大輔、若い時代劇監督の代表としての田中徳三らから、もっと世俗にくだけた、人なつっこい、市井人の生命感も、イキイキととりだしつづけてきました。「弁天小僧」「お嬢吉三」「切られ与三郎」といった歌舞伎古典の、現代感覚によるリバイバル(復元)版。それを中心にして数々の「濡れ髪」もの、「狸」ものにいたるまで、私たちは、ドラマの時代こそ今を百年へだたるにせよ、人物の心理と行動は、まさに現代に生きてるような、そんな青年を、何度となく雷蔵さんのうえに見てきた。そのような作品での雷蔵は、たとえば悲恋の親王や鏡花ものの主人公などとは打ってかわって、それこそ、打てばひびくような、すばやさ、ぬけ目なさ、えげつなさ、といった人間味を、ぬけぬけとした表情や動きでたのしむのです。
−そしてここで肝心なことは、このような作品での雷蔵の“ドライ”な味はいわゆる貴公子ものの“ウエット”な感じとまったく具質だ、雷蔵さんとは実際どんな役でもコナせるんだナ、といった、そんな彼の幅の広さだけではありません。私たちが注目しなければならないのは、いまや市川雷蔵の特質となった喜劇感覚(「ぼんち」や「好色一代男」の彼を支えたもの)は、このようなさまざまの庶民的役柄のつみ重ねてこそ、練磨されてきたということ。そして、更にその彼の喜劇的感覚、自分に対する客観的なゆとりは、いっぽうで彼の貴公子役をも、大きな変貌にみちびいてきた、という点なのです。
つまり雷蔵という役者は、どのようにウエットな、古風な二枚目を演じようと、いまや、その役を冷静な現代人の目でみずからつかめる人になってきた、ということなのです。