こんな彼をさみしがり屋だという人がある。たしかに彼は孤独に育っている。関西歌舞伎の名門市川寿海の養子だということはよく知られているが、兄弟とてなく早くから一人で暮している。こんな生いたちが彼を一人ぽっちにさせるのか。中村錦之助や勝新太郎のように一族郎党を引きつれてハデに遊びまわるようなことはめったにしない。酒はお付合い程度煙草はすわないということもあるが、映画を見にいくにしても、買物にしても、いつも一人である。えてして大スターになるととりまき連が多くなるものだが、彼の場合は派バツを作らない。最近の彼の股旅映画『濡れ髪三度笠』の半次郎がいうように「親分なしの子分なし」ということになる。これを裏返せば、役者としての社交性にかけるともいえるわけで、いわゆる如才のなさというものを一切身につけていない。だから初対面の人間にはときには「なんて野郎だ」と、尊大ぶった見方でとられることもある。ビジネス・スマイルをやらないからだ。
所内ではこんな調子だが、一歩映画から外の世界へ飛びだすとスターの衣をすっかり脱いでしまう。同志社大学の相撲部と親交のあることはあまり知られていないが、去年も彼らのために風呂場を寄付したりしている。そういう連中と月に一度食事に出かける日の雷蔵はほんとうに楽しそうだ。また後輩の面倒もよくみる。『若き日の信長』で抜擢された新人が貧しい化粧道具しかもってないのを知ると、ファンのイメージをこわすやなかいか、とりっぱな化粧ケースをプレゼントしてやったり、眼に見えぬところで相当の金を使う。こういうところに彼の面目躍如たるものがあるようだ。要するに死に金は使わないのだ。おしゃれなので月に一着ぐらいの割合で服を新調し、夏場にはいっぺんに数枚ものオープン・シャツなど買いこむが、すぐにスタッフ連に払い下げてしまう。これが彼流の合理主義ともいえる。
というのも彼がたえずスタッフと親密に交流しようという気持ちをもっているからだ。先だっても、彼自身はさしてうまくもないのに「ライゾー・チーム」を作ったのも、野球を通じて現場の空気を吸収し、スタッフの生の声を聞くのが目的だった。常にお山の大将になって、スタッフからお世辞をいわれる立場にならないことを心がけている。賢明な自重策といえよう。
こういうふうに他を批判しながら、厳しく己を律する態度は歌舞伎の封建制の中で、たえず抵抗しながら育ってきたことに由来するのだろうが、ハッキリいえるのは彼が非常に近代人であるということだ。それも関西的な近代性を身につけている。江戸っ子の歯切れのよさというか、感情的なところがない、冷静でネバッコイものがある。衣笠貞之助や伊藤大輔のようなベテラン監督にでも、仕事の上では自分の計算を堂々とのべ、了承できるまでねばる。そういう図太さを持っている。人によってどうこう足元を見る態度がなく、これが決して権威におもねることがないから愉快である。