そのうち雷蔵の眠狂四郎シリーズがはじまって、全十二作のうち八作までもわたしが脚本を書いた。シリーズを書きつづけることはあまり好きでなかったから、途中でやめさせてもらったが、雷蔵の狂四郎は死に至るまでつづいた。

余談ながら、わたしの書いた眠狂四郎が原作と肌合いがちがいすぎると、よくひとに言われる。けれど、狂四郎はまぎれもなく原作者柴田錬三郎さんの筆から生れた人物なので、わたしの狂四郎は借りものなのはいうまでもない。ただ、わたしはああいうふうにしか書けなかったのだ。

根はセンチメンタルで心優しいのに、鬼の面をつけて、世をすね、ひとを寄せつけようとしない世捨人、−そういう浪人者を好みのままに書いたまでで、ほかに書きようがなかったのだが、雷蔵はよく化身してくれた。

追い追いに映画作りが難しくなって、大映という会社も危うくなりかけたころ、雷蔵、ときに三隅研次も加わって、「先行き、できれば仲間を集めて、ほんとうに作りたい映画を作ろう」「製作費はわたしがなんとかするから」と雷蔵がいうので、「たくさん貯金しようぜ」なんぞと笑い合ったものだ。おもいもかけず雷蔵が早逝してしまい、それらの夢は何一つ実現せぬままに終ってしまったけれど。わたしの心底には、ちゃんばらのない江戸世話物をやりたいという希いがあった。ということは、たとえば少年のころ、わたしが夢中で追いかけて観た映画監督山中貞雄の諸作である。まだ少年なのに、ああいうひとといっしょに仕事ができたらいいな、などと夢のようなことを茫とかんがえたりしたことがあった。そのくせ、そのころのわたしは画家になるのだとおもいつづけていたのだが。

二十九歳という若さで戦死した山中貞雄の遺作は、ぞっとするような末期の眼で描かれた『人情紙風船』である。黙阿彌の「梅雨小袖昔八丈」から材をとった小悪党の髪結新三が主人公の書替えで、はじめて映画で江戸を見たおもいがしたのを今でも忘れない。美術考証はさしえ画家岩田専太郎で、ともどもみごとな、なんともいえぬ無常感の漂う画面だった。「ああいう世話物をやりたい」雷蔵も「やろう」といってくれた。