好きなサムライ
人間というものは薄情なくせに、ごく身近な人が死ぬと涙をこぼす。その人を生前知っていたということだけで、なにか心がほとばしるのである。
従って全く知らない人がヒドイ交通事故にあって、どんな無惨な死に方をしても“あ、またか”というような無神経な感覚でおられる生きものである。
しかし、例外もある。私は、映画俳優市川雷蔵の大ファンであった。ファンというよりもあとにも先にも、こんなすばらしい俳優は出てこないのではあるまいか、というほどの打ちこみ方であった。
もちろん、一面識もなかった。雷蔵の訃報に接したとき、私は家にいたのだが、すぐ仏前にお灯明をあげ、合掌しながら、こみあげてくる悲しみに耐えようとした。だれがこんな得がたい俳優の生命を奪ったのか、だれが・・・。悲しみは怒りにかわっていった。
その夜、あるお祝いのパーティーに出席することになっていた私だが、どうしても晴れ着をきる気持ちになれず、お通夜にゆくときのためにとつくっていた水色の無地の着物(まだ一度もきていなかった)を身につけて、私だけのお通夜をさせてもらった。
私が、雷蔵の映画をはじめてみたのは『忠直卿行状記』だった。この映画をみてからの私は、身も心も奪われてしまい、以後、雷蔵の映画は欠かさずみるようになった。映画をとおして、檜のようにかぐわしい雷蔵のかおりをかぐ心地すらしていた。
中里介山作『大菩薩峠』が封切られたときは第一部を五回もみて、すべてのセリフをまる暗記すらしていた。主人公の机竜之助にすごい愛着をもったのも、雷蔵によって血肉をつけられ、愛憎の感情を立体化されたからであろう。
小説と映画とは全くちがうものなのだが、雷蔵が演じると、不思議に生き生きとした交流ができた。五味康祐作『薄桜記』も私の大好きな小説の一つだが、これを演じた雷蔵もまことにみごとだった。
雷蔵の場合、現代ものよりも時代もの、それも悲劇の武士が主人公であるとき、より彼の本領がでていた。
はじめのうちは夢中で惚れていた私、そのうち会いたいという思いにかられ、それが会わないほうがいいのだと、感情を沈殿させることができるようになってから、なにか不吉な予感が私の心をかすめるようになった。
それが決定的になったのは日生劇場のコケラ落としで「勧進帳」の富樫を演じる彼の舞台をみたとき、もしかしたらこの人は死ぬるのではないか、という思いにとらわれてからである。
観る人の心をしんと浄化させずにはおかないほどの清冽で気迫のこもったさえざえとした雷蔵の富樫は、梅花一輪カブトにさし、香をたきこめて決死の陣中にきりこんでゆく凛々しい若武者の姿を彷彿させた。
三十七歳の若さで逝った雷蔵は、そのときすでにおのれの死を予知していたのかもわからない。ともかく市川雷蔵は、私の心のなかに永遠に生きつづけてくれる、かおりたかい武士なのである。(昭和45年3月8日東京新聞日曜版より)