花ひらくスタアたち-市川雷蔵-
彼はいろんな役をやったが、いつも背筋がよく伸びていて、それこそ、あぐらをかいた姿など思い出すのが難しいくらい、きりりと姿勢がよかった。その姿勢のよさは、その役柄が自分に厳しい侍や侠客が多かったこととあいまって、精神の緊張の表現として受け取ることができた。
とぼけた役もよくやったが、多くのばあい、貴公子のようにすました表情をしており、その眼は、しばしば、何者かをじっと凝視するように固定した。その凝視する視線は、ぼんやり相手を眺めるというのとは違うし、相手を圧倒するのとも違う。なごやかに相手にほほえみかけるのではもちろんない。その視線は、あまりにピタリとすわってしまうので、ときとして、相手を見ているのですらないように感じる。では何を見ているのか。自分自身の心の中をこそ見ているのであろう。あるいは、心をすませて完全に冷静な精神状態をつくり出すために視線を固定させているのかもしれない。
克己、という言葉がそれにふさわしい。溝口健二監督の「新平家物語」で、若き日の平清盛に扮した彼は、クライマックスの比叡山の僧兵の群れとの対決で、神輿をかつぎ出して武士たちを威圧する僧兵たちの前にすくっと立って、見事な姿勢と緊張した凛々しい表情で御神輿を真正面から見据え、あの、すがすがしい視線をピタリと御神輿に固定して、ためらうことなく矢を射かけた。
少しもためらうことのないその自信に満ちた行動が、御神輿の神聖という虎の威をふりかざしている僧兵どものいい加減な気分を心理的に圧倒するわけだが、市川雷蔵は決して大男でもなければ豪傑タイプでもない。その圧倒する感じというのは、まさに、姿勢と、表情と、視線と、それからもうひとつ、りんりんと響くメリハリの利いたさわやかな口跡から生じている。
自分の行動は全く自信があり、少しも動揺していないという精神のありかた、また。そういう精神状態を維持するために完全に自分自身をコントロールできているという余裕、それらがそこで鮮やかな形となってきまっていた。
これは必ずしも市川雷蔵の独創ではない。歌舞伎の伝統のなかで培われてきた形の応用である。歌舞伎では、姿の良さ、姿勢の良さということをうるさく言う。その姿のなかに精神がある。画家の岸田劉生は、バレエの美と歌舞伎の美を比較して、バレエが飛躍し飛翔する美であるとすれば、歌舞伎は、飛翔しようとしてつき出された力が、のびきる一瞬手前でぐっと止められて、ぐーんと逆にもどってくる美しさである、という意味のことを言った。
バレエでは手や脚を伸ばせるだけ伸ばし、まるで生身の肉体を超えて手足が羽根やスプリングになって宙に舞いそうになるようなイメージを与えるところが、見る者の心をも軽やかに飛翔させるという感銘になるが、歌舞伎のしぐさはそうではない。見得をきり、六方を踏むときの体の動きに典型的に示されるように、手足をぐーっとつき出すようにしながら、それを伸びきってしまわせるのではなく、伸びきる手前で気合をかけるように止め、指などをぐっと背らせたり、ひじをぎぎーっときしませるように曲げたりしてひきもどす。天上に飛翔するかわりに、力をひきもどして自分自身の中にたくわえるのである。
クラシックのバレエが、天上への憧れという、キリスト教的な美意識を基本にしているとすれば、歌舞伎のこういう形の美は、あふれる力を自分の内側にぐっとため込む我慢の美、とでも言えるかもしれない。
関西歌舞伎の市川寿海の養子であり、歌舞伎の名門の出である市川雷蔵は、そういう歌舞伎の形を受け継いで、それを映画的にこなしたものである。「大菩薩峠」の机竜之助や、「眠狂四郎」シリーズの狂四郎のようなニヒリストを演じるばあいにも、雷蔵のこの貴公子的な凛々しさは独特の味わいになっている。
これらの役は、平清盛とは違ってまるで背徳的な行動をするのだが、身だしなみが良く、立居ふるまいが清潔で、しかも、心の中の一点に精神を集中しているようなその姿からは、一口に背徳的といっても、欲望のままに放縦に動いているといっただらしなさは感じられない。むしろ逆に、きわめて精神的な人間がなぜか背徳的に行動している、と見えて、その背徳性が逆説的に内面の苦悩の表現に見えてくる。
歌舞伎の見得や六方のように大げさな身ぶりをするわけではないが、すっくっと立って刀を構える姿勢には、やはり、力を発散してしまうのではなくてぐっと内にため込むような呼吸が感じられて、そうなるのである。(佐藤忠男 77年刊じゃこめてい出版「君は時代劇を見たか」より)