これから述べようとすることは、みんな日本が世界の水準以下ということを痛感させられたもので、まことに残念と言わざるを得ません。

皆さんも御存じのように日本の公園、遊園地、劇場などの公衆の集る場所へ行くとどれだけのゴミが散らばっていることか、また我々の祖先の尊い遺産ともいうべき古美術や古建築を破損したり、落書で汚したりする者のいかに多いことか、まことに同じ日本人として恥かしい限りです。これはエチケットを知らぬといえばそれまでですが、大袈裟な表現をすれば、自分だけのことしか考えないで、自分の暮している町、自分の生きている国に対する愛情を持たない証拠だとも言えましょう。

アメリカにおけるこうした公衆道徳の意識の発達は、まことにすばらしいものがあります。一体どこへ行ったらゴミや紙屑が見られるだろうと考えたほど、どんな所へ行ってもゴミがありません。(中略)

アメリカ人がこのようにして自分たちの住む小さな町を愛することが、更に都市、州、国家に拡がって行く姿となるのだとよく判るような気がしました。日本人も終戦後、特に国家の意識がなくなったようです。ことに先輩後輩の別、両親や年長者をうやまう美風が甚だしく失われてきて、まことに心外のきわみです。

アメリカはデモクラシーの国と言われますが、何事も自由自由といって放任しているのではありません。日本の青年も映画や雑誌やで表面的な現象はすぐ真似をしますが、映画ではその時その時の面白味を描くものであって、実はもっと深いところに立派なエチケットの水準が確立されているのです。ただそれらがアメリカ人にとって全く平凡な日常茶飯事なので、映画では変ったことしか強調しないのを、アメリカ人のすべてのように思って、猿真似するのは良識ある人が見ればお笑いにしかならないでしょう。(中略)

日本にもお茶とか小笠原流とか古来から伝わった礼儀作法がありますが、今やいたずらに形式のみにとらわれてその根本的な精神を現代にマッチさせ生かす努力をしていないようです。どうして世界的の水準にまでつちかって行かないのか私には不思議でなりません。

最近の日本人、特に若い学生の人たちの行動を見ると、日本在来の良識を顧みないばかりか、自由主義をはき違えていることがよく判ります。この間も京都のある高校の卒業式にあたり学生の自治会で卒業式是非論が闘わされました。やっと行われることになった式でも、校長や来賓の訓話を長々と聞くのは無意味だとばかり、講演中にも低劣な野次が飛ぶ有様だったということで、昔のように「蛍の光」を歌って師弟ともに美しい感激に浸るという情感は少しも見られなかったわけです。

また、この頃のように観光シーズンの京都では修学旅行の学生群を各所で見かけますが、私たちの学生時代には道を歩く時も、二人以上は横隊を組むなと言われていたのに、今や五、六十人が五、六列になって狭く混んだ道を我物顔にのし歩き、その後から先生がこそこそついて来るという状態が多く、教育というものは一体どこでどんな風になされているのか、甚だ疑問に感じます。このような公徳のない、道徳のわからない人たちが、やがて成長して次代の日本を担って行くのかと思うとそぞろ寒む気をおぼえるばかりです。(以下略)

まさに国士の概あり、である。市川雷蔵は、或いは政治家になるべきであったかも知れない。(「百八人の侍-時代劇と45年-市川雷蔵」65年7月30日朝日新聞社刊より)