下河原の小路の家

昼日中でもひっそり閑として、ほとんど人通りのない石畳の小路は、祇園さんから程近いところにあるとはおもえなかった。もしかすると京都でいちばん居心地のいい場所だったもしれない。

いまおもえば贅沢至極であるけれど、そのころは、そんなふうにかんがえたりすることもなく、朝な夕なその下河原の小路の家で日日を過していた。二階の窓からは五条の塔が眺められる。そこがわたしの仕事場だった。

川口松太郎さんが、以前、大映京都の撮影所長をしておられたころに住んだ家だと聞いていた。その閑雅な小路の家にわたしが居候をきめこむことになったのだ。居候といっても、川口さんがその家にくることはきわめて稀であって、ときたま、子息で俳優の川口浩が、婚約者の野添ひとみを伴って、東京からやってくるくらいのものだ。そして、ひとしきり父親の滑稽咄を茶にして、どこかへ遊びにいき、その家には泊まらなかった。

だから、わたしの独り天下のようなあんばいになった。食事やら身のまわりのめんどうは、ずっと以前から留守居役をつとめているお婆ちゃんがしてくれる。昔をいえば粋どころにいたかもしれない、そんなようすのお婆ちゃんは小犬といっしょに暮らしていた。東京下町で生まれ育ちのわたしには、そんな閑雅な朝夕は、はじめてのおとずれだった。

とつぜん京都へ招かれ、時代劇の脚本を書いてみろといわれ、そういうことになったのだ。

わたしの時代劇第一作になったその作品の題名は、「新選組始末記」(63/三隅研次監督)。川口さん愛用の朱塗りの大きな机を使わしてもらって書いた。

東京にいるときと同じで、もともと出不精のわたしは、そんな閑雅の地に身をおきながら、ろくに散歩もしなかった。日がな一日、仕事のほかはぼんやりしていた。

第一稿を書きあげると印刷にまわった。すると、日常が変った。仕事のあとのぼんやりした気分、何をするでもない気分の楽しさを味わっていると、夕刻、きまって迎えがくるようになったのだ。迎えとは、所長や企画部、製作部などの撮影所の連中である。

ほとんど拉致されるようにして、いつでもむかうところは祇園花見小路。そして連日の御馳走と茶屋遊び。監督との打合せ、製作打合せが難物だとおもっていたら、何事もなく第一稿のまますすんでしまって、そのあとも御馳走やら名所めぐりのもてなしがつづく。いいかげん飽きてしまって、わたしは、身についた東京の雑っぱな暮らしが恋しくてならなかった。

そうしているうちに、市川雷蔵からの食事の誘いがきて、嵐山の「吉兆」へ連れていかされた。そういう席の好きでないわたしは、苦情をいったりした。雷蔵は、ただ笑っていた。

東京へ帰りたくて、帰りたくて、かといってみんなの厚意を無にするわけにもいかず、心ならずも日を過していると、京都で次の仕事をしろという。

そもそもわたしは、東京撮影所と契約があるのであって、京都側とは無契約だ。それだものだから、次から次の仕事がつづいてしまうと、東京側からけんつくをくらい、一悶着あったりした。

勝新太郎との仕事になると、勝は連夜の祇園通いだから、おもしろおかしく座興のかたわら、六代目菊五郎と宇野信夫さんの咄になったりする。芸談が多かった。

わたしはずっと下河原の小路の家に身をおいていたが、そのうち、川口さんは京都へ来ても、下河原の家には来なくなって、ホテル住居になった。わたしは大いに恐縮して、城明渡しでホテルに移ろうとしたが、その必要はないとお婆ちゃんがいう。「川口先生のおいいつけやから」とのことで、なにやら意味ありげに笑っている。

ははん、そうか。ようやくわたしは合点して。そういうことなら、致し方なし。ありがたく居続けをきめこむことになった。どういうことか、読者諸賢はお察しであろうから、ヤボは書くまい。天下御免のお墨付き。

そのまま、一年通して小路の家にいればよかったものを、夏が苦手で、ひどく身にこたえるわたしの体質を配慮してくれて、急ぎの仕事ゆえとホテルに移ることになった。

京都の夏はつらい。冷房のホテルは心地よくて、仕事ははかどった。仕事ははかどって終ったものの、冷房病にやられた。

社長命令とやらで、雷蔵と勝新太郎の作品が二本立て同時公開になったのだ。双方がわたしの脚本だった(「眠狂四郎女妖剣」64/池広一夫監督、「座頭市血笑旅」64/三隅研次監督)。みっともねえなア。わたしは大いに恥じた。だが、幸か不幸か、その二本立て興行は上上吉の成績になった。

以後、雷蔵も勝もはたらきづめになる。そして雷蔵は命をちぢめた。

おもえば、三十年まえ。そのころが映画の世は落日の夕映えで、それともしらず、みんな夢を追いつづけていた。

テレビに追討ちをかけられて、映画の軍勢がだんだん怪しくなってくる。それでも東映軍は奮闘していたが、わたしたちの大映王国は傾いていった。

やがて、落城。落城とともに、京都の街頭で映画仲間を見かけることも、めっきり少なくなった。下河原の小路の家も他人手に渡った。

映画の都。映画王国だった京都。今は昔である。

今昔映画物語。あれもこれも、今は昔の語り草、今は昔の偲び草になった。

嘆いてばかりいられないのは、百も承知だが、承知のうえで映画王国を語っては心なぐさめる。

みんな、よく遊び、よくはたらき、よく戦った。

戦い敗れて、われらが城は落ちた。大映京都撮影所という「夢」を追いつづけて戦った「城」は、もう跡かたもなく消え失せた。びょうびょうと風が吹いている。(別冊太陽SPRING1997「日本映画と京都」より)