現場で好かれた優等生

市川雷蔵はプロデューサーでもやっていけた男です。画家から新劇の若手まで付き合いの幅が実に広かった。生意気だったり、撮影中にぷいと消えたりする役者は多いが、雷ちゃんはけじめがある優等生。大映なき後も、彼が元気だったら一緒に映画を作っていたと思う。さわやかな思い出ばかりで、37歳の早世が本当に残念です。

歌舞伎出身だから演技の素養はあったが、大映入社時(54年)には七人ほどの中で一番マシという程度。七代目坂東三津五郎に「雷蔵くん、どう?」と聞かれ、「まあ、いけるでしょう」と答えたら、「あんなくにゃくにゃしたのが通用するのかね」と言われましたよ。その後、現場で人気があるというので注目した。撮影中に衣笠貞之助監督が前と違う指示を出すと、「先生、どっちです?日ごとに違っちゃ困る」と平気で言う。衣笠さんもタジタジで「そら雷蔵、先に言った方や」と言うと、現場がわーっと沸く。照明の三番助手まで「雷ちゃん」と呼べる雰囲気でした。

60年の秋、いつもは撮影所で何でも話す雷蔵が「お昼を食べませんか」と言う。結婚したい女性がいて、それが永田雅一社長に縁のある女性の娘と打ち明けられました。雷蔵は当時から腸の具合が悪く、入院先の病院に母親の代理で見舞いに来た彼女と出会った。ところが、映画の話になっても、彼女は「邦画は見ません」。「そこにホレたんだろう」と言うと、「まあそういうことですかな」と笑っていた。社長が反対だという相談に、「政略結婚と勘ぐられては気の毒という消極的反対。押し切れるよ」と言ってやりました。

死の一年前から準備していた新劇の「劇団鏑矢」は稽古場ができ、キャストも決まって、券を売るばかりだった。楽しみだったのに、「念のため」と行った病院から、彼は出て来られなかった。死に顔は私も見ていません。(元大映京都撮影所長、朝日新聞より)