演技者としての目覚め
土井 雷ちゃんの演技者としての出発というのは『新平家物語』だと思うな。僕は。
池広 役の図太さみたいの出て来たのはそのころからですね。
土井 あれから役も通り一遍の俳優とか、スターと言われるものから、演技者と呼ばれる形のものに目を開いてきたんじゃないかな。あの青年時代の清盛、大変よかったと思いますね。
太田 でも、あの清盛にたくましさは、あまりなかったようだな。
土井 強調しないと、たくましさはないからね。だから、カメラテストの日に、溝口さんから、お前さんは、解剖学の教科書を買って来てよく読みなさいと、人間のどの部分にはどれだけの筋肉があって、どういう形になるのが、人間として最もスタンダードな型なのかとくと勉強しろと、(笑)といっても今すぐに、実際の筋肉はつかないだろうからそれは演技によって足りないところを補って行けとか、言われたんですね。あの作品の評価は別としても、青年時代の清盛の苦悩は、溝口さんとしても、雷ちゃんとしても、出し得ていたと思うんです。しかし、後半になると弱くなってるんじゃないかと思う。雷ちゃん自身にしぼって言えばね。
太田 よく言えば、手さぐりと言えるのはあの作品だと思うね。
土井 そういうことでしょうね。溝口さんが今生きていたら、大変面白い組合わせになると思うな。
池広 今の雷ちゃんだったら、やっぱり、溝口さんに対しても、直接は言わないにしても、なんでやと言うと言うだろうね。
土井 そう、相手が、溝口さんであるとかというので、辟易する雷ちゃんでもないと思うしね。
池広 普通ね、演技力が出来る前に人気が出ると、演技者としてマイナスになる場合が多いんですよ。ところが、雷ちゃんの場合、倖せだったと思うのは、人気と同時に演技力もつき、演技と、人気が両立して行ったことだと思うんです。人気だけが先に出て、演技力がともなわないと、いわゆる大根役者が出来ちゃうんじゃないかと思うんです。それが『新平家物語』で溝口さんにたたかれ、市川(崑)さんに『炎上』でたたかれ、演技者の自覚とか、執念というものと、一緒に成長して行ったことは本当に倖せと思うね。
土井 大変恵まれていたということだね。
太田 その恵まれたチャンスを十分に生かし、消化しきったわけだ。
池広 それはやっぱり素質だな。
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