雷蔵に望むもの

土井 大変口幅ったい言い方なんだけど、僕たちは、今はしがない助監督だけど(笑)いつか、なるかならないか、知らないけど、ネガを、一本何千フィートか露出させようと思っているわけだ。その場合に於いては、雷ちゃんをおそらく、素材としてか、見ないだろうと思う。また、そう見たいと思う、キザな言い方じゃなくて、そうすると、雷ちゃんのこれからに対する希望というのは、とりもなおさず、これは、池ちゃんにしろ、太田君にしろ、自分はどうなるであろうかということに結びついてくるだろうと思うんですよ。違うかな。

太田 いや、大変結構な話じゃない。

土井 そうなって来た上で、僕は雷ちゃんに希望すること云々、というのは、さして、具体的に必要ではないわけだ。雷ちゃんに希望することというのは、取りも直さず、僕が僕自身に希望するようなことである。ということにおきかえられるわけですよ。ちょっと具体的にならないけども。

太田 結局そうだと思いますね。雷ちゃんと僕たちというのは、同じ世代に育っていて(注:土井28年2月5日、太田29年5月12日、池広29年10月25日生まれ)、同じ世代にあるものの使命感というと大げさだけど、映画を作る上において共通した、考え方があると思うんだ。これを同じ世代にあるものとして、ぶちまけて行きたい、また、多分雷ちゃんもこれに協力してくれるだろうと思うんだ。

土井 将来演出は僕たちがやらなくてはいけないんだしさ、出演はこれからも、雷ちゃんに続けてもらわないといけないと、すでに現代劇では、若い人同志で、新しい動きが出てきているし、これは、時代劇でも、当然起らなくてはならないし、また、起そうと、僕ら自身考えているしね。ここにこそ、雷ちゃんともども期待して欲しいというとこだな。

池広 それは、大変テレくさい言い方であって、PR的臭いがないでもないけど。(笑)

土井 たとえば、池ちゃんが『炎上』や『ぼんち』を撮ったとしようか。たとえそれが崑さんのものよりバラバラであったにしろ、同じ若い世代として、崑さんのものとは当然別だと思う。それは僕たちはそれだけの意欲をもっているということだし、うけて立つ、雷ちゃんも当然それだけの期待をもってくれると思っている。恐らく、きっとそうですよ。

太田 それと雷ちゃんがもってる苦しさがあるとしますよ。そういう苦しさとか、傷というのは、同じ時代に育った青年が、皆うけているような傷であり、これを、お互いにカバーしようというのではなくて、その傷の上から、何か新しいものを作りだそうじゃないかと、こういう共感は、若い世代にしかないよ。そういう共感から、前むきの姿勢の時代劇の新しいものが作り出されるような気がするんだけどな。

土井 そこだな、だから企画者が誰であっても、企画方針は何であっても、演出プランがどうであっても、一応それに応えてくれるであろうという雷ちゃんを期待するわけですよ。これは、あくまで将来、監督として一本に立った時の自分の立場で言っているんだけど。

池広 これから先、今の雷ちゃんと変らないで、ずーっと今のままの雷ちゃんで行って欲しいということだね。

土井 そう、今のままでね、話をするのに敬語をつかう必要もないし、こっちも言いたいことを言うし、むこうも言うし、今のような雰囲気で、互いにディスカッションしながら、今の雷ちゃんは、お世辞じゃなしに僕たちと共鳴することが多いから、だから、変って欲しくない。

池広 僕らも、一緒になって悩もうじゃないか、一緒に楽しもうじゃないか。そして、雷ちゃんは天下の市川雷蔵になってくれ、しかし、気持ちは今のままでいて欲しい。これが、僕たち助監督の期待であり、雷ちゃんに望むことの結論だな。 

(「時代映画」昭和35年10月号より)