武智歌舞伎
歌舞伎役者と親しく
我が家が演技指導の場に
日本経済新聞私の履歴書・片山九郎右衛門J12/11/05
東京・多摩川の観世華雪先生のお宅に月に一度の稽古に通い始めたころ、京都では若手の様々な勉強会が企画された。私が加わったものだけでも伝統芸能関係の人たちの「おせっ会」、企業関係者も混じった二世ばかりの「鶏頭会」などがある。会の名に現れているように、どちらも「お節介ではあっても互いのジャンルのことを言い合い、皆が毅然として立とう」という趣旨の会だった。
ご一緒したのは狂言の茂山千之丞さん、歌舞伎の中村富十郎(当時は坂東鶴之助)さん、いま南座で襲名披露興行中の坂田藤十郎さん(同、中村扇雀)さんらほぼ同年配の方々だ。言いたい放題の会だったから話の中身はほとんど忘れたが、富十郎さんが役作りについて熱心に語っていたのを覚えている。
富十郎さんは当時、武智鉄二さん演出による歌舞伎の研究上演で、『熊谷陣屋』に熊谷直実役で出演することのなっていた。この演目の見せ場はご存じのように、源氏方の熊谷が組み伏せた平家の公達、平敦盛の命を助け、代わりに討った我が子の首を首実検にそなえる場面。この熊谷の心持ちを思案していて、「自分が死んだら父がどういう気持ちかを考えて演じたい」と話していた。
このいわゆる「武智歌舞伎」は八代坂東三津五郎(当時は蓑助)さんが指導し、様々な分野の人が協力した。両親も第二回公演だったか昭和二十五年(1950年)五月、『勧進帳』『妹背山道行』を上演する際に二人そろって演技指導を頼まれた。『勧進帳』は能の『安宅』を題材としているので父の博通に、『妹背山道行』は「全部井上流の舞でやらせたい」から母八千代にというわけだ。稽古場所は我が家の新門前の敷舞台などがあてられ、出演する富十郎さん、市川雷蔵(当時は莚蔵)さん、片岡我当(同、秀公)さん、少し後には藤十郎さんもいらっしゃった。父は「他流も見た方が勉強になる」と、金春流の桜間龍馬(後の金太郎)さんにも来てもらうほどの気の入れようで、足の運び方に始まり縷々指導していた。
母は男性に教えるのは初めてでとまどっていた。それに井上流は下半身の安定、つまり「おいど(腰)おろして」を基本とするので、皆さん歌舞伎の舞踊と勝手が違って「うんうん」言いながらやっておられた。私は人のことを言える立場になかったが、稽古を拝見して「芸に携わる者に必要なのはたゆまぬ努力」と再認識させられた。
「武智歌舞伎」の方々とは以後もお付き合いが続いた。我当さんは、別途、稽古に足を運んでこられ、母は「最初の男弟子」と言っていた。雷蔵さんはお住まいが高雄口の別宅に近く、私が一時期、仕舞を手ほどきした。また、雷蔵さんが映画で信長を演じた時、「人間五十年、下天の内を・・・」の謡の吹き替えをしたこともある『敦盛』は能ではなく幸若舞の『敦盛』だから、お手の物ではなかったけれど頼み込まれてだった。
藤十郎さんは昭和二十六年、『土蜘蛛』の胡蝶役を能装束で演じる際、この装束を我が家でお貸しすることになり、私が公演場所の南座に着付けを手伝いに何日か通った。富十郎さんとはご長男の鷹之資君の仕舞の稽古を頼まれるなど、いまも親しくお付き合いしている。