思い出すままに

 雷蔵さんとご縁ができましたのは、もうかれこれ二十年ほど前のことになりましょうか。その頃はたしか莚蔵さんとおっしゃっておりました。いわゆる武智歌舞伎で特訓を受けておられた頃でございます。武智さんにお頼まれして「妹背山」のお稽古をいたしました。たしか大阪の朝日座におかけになるのだったと存じます。

 皆さん方二十になるかならずかで、鶴之助(今の竹之丞さん・現富十郎)のお三輪、莚蔵さんの求女、まだ子供さんといった感じの秀公(現・我当)さんの橘姫でございました。熱演型の鶴之助さんは、それこそ頭からポッポッと湯気が立ちそうなひどい汗で、浴衣はずくずくになりますし、見るからにお気の毒なようすでしたが、一方、雷蔵さんの方はもちろん一生懸命には変わりがないのですが、汗一つ出るではなし、けろりと涼しい顔でございました。どちらが得なのか損なのかはわかりませんが、今と違って、真夏と申しましても、どこさんでも冷房設備がととのっておりません時代ですから、私も大そううらやましい思いをいたしましたのを覚えております。

 その後、京都の南座で、「宇治川先陣物語」を、雷蔵さんの源太景季、秀公さんの平次景高、扇雀さんの腰元千鳥でお出しになった時もお稽古いたしましたが、皆さん、若さと体力にまかせて、武智さんのスパルタ教育に応え、鍛えに鍛えておられた頃ですから、必死に向かってこられる気組みのはげしさに、私の方も一生懸命でございましたし、とても気持ちよく、楽しくお稽古をさせていただきました。

 実はその時にも感じたことですし、その後、寿海さんのご養子になられ、雷蔵さんを名乗られてからもお芝居を見せていただきましたが、決してご器用なたちではないように思えました。けれど、とても素直な芸は知らず知らずに好感を抱かせましたし、熱心さと、あの爽やかな台詞は十分に魅力のあるものでございました。

 

 私と寿海さんとは、ごく親しいお付き合いがございますので、映画に入られてからも、お目にかかることがございましたが、舞台や画面でもやはりどことなく寿海さんに似たところが出てまいりましたのは、知らぬ間に学ぶということでございましょうか。私などはぜひ早く歌舞伎に戻っていただきたいとのみ願って根気よく待っておりました一人でございますが、こんなことになられて、口では言い表わせぬ無念さで一杯でございます。

 老いの坂にさしかかってさえも、芸に終わりがございません。芸事に対する貪婪なまでの欲望は尽きることを知りませんの、ちょうど私の息子たちと同じ年頃の仕事盛りに亡くなられたことを思いますと、もっと生きさせてあげたい、お仕事の夢もどんなにかふくらんでいたろうに、とご本人がどんなにか無念だったろうと、そればかりが思われてなりません。

 ほんに惜しい方でございました。