別れ
死というものが、突然こんなに激しく私の心にとび込んでくるとは想像もできなかった。
安田道代君が真っ青な顔でとんできた。
「雷蔵さんが・・・・・」
あとは声にならなかった。カーラジオで聞いたという。
ロケ中のことである。私の胸の中を激しい戦慄が吹きすぎていった。風のない暑い日だった。草いきれの中での撮影中だった。
スタッフ全員が集まって、その場で東京に向かって黙祷した。誰も涙を見せなかった。だが心の中では皆んな泣いているようだった。
「九月には元気で撮影所に帰ってくる、新しい雷ちゃんの企画を考えてほしい」
こんな話を聞いたのがすぐ数日前のことだった。非情をきわめた冷酷なこの現実に、むなしさと遣り場のない腹立たしさがこみあげてきた。その報せが嘘でないかと信じ難い想いが、あとからあとからつきあげ、それが心の中でそのまま涙となってゆくのを感じた。暑い太陽が照りつける草いきれの中の悲しい想い出である。
あれから間もなく一年・・・・・
雷蔵さんとのつながりは、雷蔵さんが初めて撮影所に飄々と姿を現わしたときからだった。当時私は雷蔵さんの第一回主演映画のチーフ助監督であった。雷蔵さんの出現は何か清冽な涼風に似たさわやかな感じであった。手応えのない温和さと、清潔な雰囲気をもったこの人は、仕事になると凛然と肩を上げて、着実で重厚な、そして絢爛たる演技者に変貌した。これは素顔を知っている私には、目をみひらくような驚きであった。
私の処女作品の短編映画に一カット通行人役でこっそり出演してくれた。初めての演出、それは私にとって途方もない恐怖の連続であった。そんな私に雷蔵さんの出演は力強い元気づけであった。惑乱中の私にやっと気楽さがもどってきた。思いがけない好意以上のものを私は意識し心より感激した。なつかしい、そして今となってはむなしい想い出である。
シリーズになった「眠狂四郎」-
この作品のスタートで、雷蔵さんをまじえて脚本家と四人で幾度も話し合った。雷蔵さんも私もこの作品を事件物的にしたくなかった。だができ上がったシナリオは、時代劇的な事件物の色彩の濃い本になっていた。もちろん二人とも不満であった。しかしいろんな理由でわずかな改訂のうえ撮影が始まった。
その後、幾人かの他の監督によってこのシリーズは作られていった。その数本目かを見たとき、はじめて雷蔵さんの狂四郎が完成したことを感じた。それは他の者の真似できない独自の雷蔵、狂四郎であった。最初話し合ったイメージがやっと具象化され花開いた感じであった。数本目かに、何年目かに雷蔵さんが創りあげた心の底にしみる狂四郎自身であった。
雷蔵さんにはいろんな夢があった。これからだと口ぐせのようにいっていた。死んでも死に切れない気持ちだったろう。しかし最期の瞬間には、風に葉が吹き落されてゆくような、ふしぎなほどのしずかさの中で、落ち着いた気持ちでいのちを終えたに違いない。安堵に似た心境の中で華やかな短い生涯を閉じたに違いない。私はそう信じたい。
撮影所内の立ち話しである。
「トクさんの名前はよくない。変えた方がいい」私は考えた。
二、三日たってまた立ち話をした。
「いろいろ考えたが、ながい間私はこの名前で生きてきた。今さら変える気持ちもない。このまま努力してみる」
「私は私なりで、トクさんのよい名前をいろいろと考えてみた。しかしそれもよかろう。信じることが大事だ」
雷蔵さんは笑いながら立ち去っていった。
これが雷蔵さんと話した最後であった。二、三日して撮影が終った雷蔵さんは、東京へ帰っていった。そして永久に京都へは帰ってこなかった。それは奇妙に明るい、なに一つ悲しみの影などささない別れ方であった。