雷ちゃんの狂四郎
《亡くなって四半世紀にもなろうというのに、いまだにファンクラブが存続し、出版社が写真集を出せば飛ぶように売れる。市川雷蔵の人気は不滅である。この雷蔵の作品を数多く手掛けてきた田中徳三監督には、思いでもいっぱいあるに違いない》
− 雷蔵と勝新太郎とが対照的に比較されることが多いのですが。
田中 二人は仲がよかったですよ。お互いに相手を立ててましたしね。巷間伝えられる東映の両御大みたいな雰囲気はまるでなかった。「勝ちゃん」「雷ちゃん」と呼びあってました。初めはギャラの点でかなり差があったみたいだけど、あとになって勝ちゃんが追い付きましたからね。二人の違うところは雷ちゃんは脚本にうるさい方でした。出来上がるまではあれこれと疑問を持ち込むのです。でも完成してクランクインしたら現場では何も言いません。ところが勝ちゃんは撮影の現場へ入ってからどんどんアイデアをだしてくるんです。
− ところで「眠狂四郎」は田中監督の企画とか。
田中 ええ、私から言い出したんです。雷ちゃんに「やるか?」と聞いたら「やる」と言うんで企画者の辻久一さんに代わって企画会議に提出してもらい、やっと通したんです。先に鶴田浩二とか江見俊太郎なんかがすでにやっていて初めてじゃない。人がやったものをはたして雷ちゃんがやるかなという心配があったんです。だから雷ちゃんがこともなげに「やるよ」と言ってくれた時は嬉しかったですね。
− なぜ雷蔵で「狂四郎」と思ったのですか。
田中 もちろん雷ちゃんで今までと違う「狂四郎」を、という期待がありました。それと「狂四郎」とは私に言わせると、女の股を広げてスレスレのところにパッと刀を突き立てても何ともない俳優でないとだめ、女の股に手を突っ込んでもイヤらしくない俳優、それが雷蔵なんです。ナマ臭さがない。勝ではとても出来ません。私はあとにテレビで田村正和の「眠狂四郎」を何本かやりました。これも田村流の「狂四郎」でよかったけれど、やはり雷ちゃんのが最高だと思います。
− それで昭和三十八年に「眠狂四郎殺法帖」を監督されました。
田中 この一回目は完全に失敗作でしたね。私と雷ちゃんが「この映画は事件ものにしたらあかん」と話し合ってたのに、時間もなかったのだけれど星川清司の脚本はきっちり事件ものになっていた。最初か市川狂四郎のイメージを強烈に出したかった。もちろん映画ですから事件がなくてはいけないんだけど「狂四郎」の雰囲気が希薄なんです。やっと雷ちゃんが「狂四郎」になったのは三本目か、四本目でした。監督は三隅研次だったか、池広一夫だったか忘れましたが「これだ」とうなずきました。二、三本で終わると思ってましたが十二本も撮ることになるなんて、よく続いたものです。(スポーツニッポン93年2月13日より)