そして『眠狂四郎』シリーズの第1作『眠狂四郎殺法帖』が作られる。
「柴田錬三郎さんの原作にある、非常に虚無的で無頼な男。しかも混血の狂四郎というのは、雷ちゃんに置き換えると絶対にいけると思いました。原作にあるキザな狂四郎のセリフ。これは普通の俳優がやったら、歯が浮く感じになってしまう。でも雷ちゃんなら、違和感なく演じられると思いましたし、女性の股座に手を突っ込むような仕種も嫌らしくなくできる。そう思ってまず雷ちゃんに話を持っていったら『やる』と言うんですよ。そこからはトントン拍子に映画化が進みました」
しかし第1作は撮り終えてから田中監督自身「しまった」と思ったという。
「言い訳になりますけれども、当時の大映では作る前から映画の封切日が決まっているんです。ですからこのときには、脚本を練りこんでいる時間がなかった。雷ちゃんも、狂四郎のキャラクターに完全に乗っていなかったですね。原作は事件の羅列みたいになっているんですが、僕としてはもっと狂四郎自身にテーマを持っていって、事件は後から付いてくる形にしたかったんです。脚本の星川清司さんにも、そのようにお願いしたんですがやりきれなかったですね。シリーズ化が進んで4作目あたりでしょうか。他の監督がやったものですけれど、やっと僕が最初にイメージした狂四郎が、雷ちゃんの中にもできたと感じました」
『眠狂四郎』シリーズは全部で12作品あるが、次に田中監督が狂四郎を手掛けたのは第10作『眠狂四郎女地獄』(1968)である。
「他の作品では雷ちゃんと『大殺陣・雄呂血』とか『手討』といった作品を一緒にやっているんです。『手討』なんかは、僕自身好きなシャシンですね。でも狂四郎だけは、タイミングが合わなくて10作目まで飛んじゃうんですよ。大映の契約監督というのは、ローテーションで仕事が割り振られますから。『女地獄』の時には、もう雷蔵=狂四郎のイメージが固まっていましたね。この映画のラストは本当に撮影のラストに撮ったんですよ。しかも思い返してみると、これが僕と雷ちゃんが撮影現場で会った最後だったんです。そういうこともあって、あの吹雪の中を去っていく雷ちゃんの後ろ姿は、いまだに思い出すことがありますね」
この映画の翌年、雷蔵は37歳の若さで急逝し、そのさらに2年後。大映は経営難から倒産する。
「雷ちゃんの死は、そういう意味でも象徴的でした。大映時代劇はいい作品が多かったですが、学生紛争が盛り上がった当時の世相と折り合わなくなっていたんですね。ただ今から思うと、東映の時代劇と比べて大映の方が何でもやっていた感じがあります。東映さんはスターシステムで、スターに合わせて企画を立てる。でも大映では雷ちゃんが『炎上』で吃音障害者をやったり、勝ちゃんは『座頭市』で盲目のアウトローをやった。ああいうリスキーな企画は、東映では通らないでしょうね。またあの二人も、作品によって自分を変えて見せることに意欲的でした。どちらも素晴しい俳優だったと思いますよ。今は昔の撮影所のように、俳優や監督が時代劇の基本から習得できる場所がない。その上で個々の個性を出せるような場所が、本当は必要だと僕は思うんですよ」