ヤフオクで落札した「時代映画」60年10月号に挟まれていた紙。元の持主が雷蔵ファンであり、しかも“後援会”のメンバーだったことが分かる。奇しき縁を感じる。

 

 

 

ファンの願い

 十月号の「市川雷蔵研究」の特集、面白く拝見致しましたが、皆様の批評は、讃辞で始まり、讃辞で終ったようで、ファンとして、これ程嬉しいことはないと思います。が、私としては感じたことを申しますと、俳優と云うものは、映画を通して、広く人々に注目される職業ですし、或る意味では、男女の代表となるのです。外国では、俳優である為には、きれいな標準語が出来なくては、資格がないと云われてるそうです。

 時代劇に多く出られる雷蔵さんは、標準語を使う機会もなく、又、京都に住まれている関係上、標準語を使う必要を認められないのかも知れませんが、少なくとも俳優という立場にあり、しかも大映の看板スターとしておられる方でしたら、座談かに於ける会話は標準語で話して戴きたいということです。

 関西弁でなくては、彼の感じがでないと云われるかも知れませんが、関西弁は、一応方言ですし、地方の者にとってわかりにくいこともございます。

 “市川雷蔵”として話される時は、標準語をお使いになられては如何なものでしょうか。

 毒舌家の彼に云わせると、いらぬ世話だと思われるかも知れませんが、言いたいことを云っても、彼の徳となすところと大目に見られ、毒のない毒舌をいって下さっておりますのも、毒舌を吐けるだけの実力を持っていることを、人が認めるからに外なりません。でも聞きようによっては、自分の考えが、一番正しいのだという自信があるからこそ、毒舌となって表われてくるのではないかと思います。

 もちろん、仕事の上にある愚問を感じ、自分の納得のいくまで、討論したり、議論したりする毒舌は大切なことです。

 しかし、自分の企画もとり入れられ、演技にも自信がついて来た、現在の彼にとって、一番恐ろしい、自惚れの気持だけはおこさないでいただきたいのです。

 勝手なことを申し上げましたが、ファンの願いとして申し上げました。(「時代映画」61年1月号“読者のページ”より)

 

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