『剣』と“雷蔵”と
立命館大学剣道部に大映京都撮影所より、「大映映画『剣』に技術指導兼エキストラとして参画してくれないか」という話が持ち込まれたのは、十一年前の昭和三十九年二月のことでした。
『剣』は“市川雷蔵”主演、三隅研次監督で、“雷蔵”演ずる国分次郎主将(四段)が、賀川副主将(川津祐介)以下東和大学剣道部を率いて、全日本学生剣道選手権大会の優勝を目指す過程での統率者(主将)としての厳しさ、また、自己の強い信念に純粋に取り組む姿を浮き彫りにし、そして自己に対して厳しいが故に苦悩し、遂には自殺するというストリーでした。
我々剣道部の有志二十名(京阪神在住者以外の者は帰郷)は、剣道の稽古が出来るアルバイトであり、映画に対する興味と合宿費稼ぎになるということで、二つ返事で承諾したものでした。
“雷蔵”に対する指導は、我が剣道部の木戸高保師範が当られました。先日、拙稿のため木戸師範にお会いして、その当時の“雷蔵観”を承ったところ、「“雷蔵”は大変真面目で順応性があり、あれだけの大スターだったが、“自分が教えてもらっているんだ”という謙虚さを持った人で、竹刀の握り方一つにしても真剣に取り組まれた。“良い人程早く亡くなる”というが、本当に良い人だった」と述懐しておられました。つらい「腕立て伏せ」や「腹筋運動」、そして「素振り」にも汗をふきふき、息を弾ませながら率先して取り組まれたものでした。
我々も監督やスタッフの人々の質問に答えたり、実践・経験に基づいて助言したり、エキストラとして参画していましたが、撮影の合間には“雷蔵”とよく雑談したものでした。映画の世界は、スターとそうでない人々との間には、我々学生には理解出来ないような厚い壁のあることを日々の待遇などで感じていたものでしたが、あれだけの大スターにもかかわらず、“雷蔵”の回りにはいつも多くの人々が和やかに集まっていましたし、私達学生がその輪の中になんの違和感もなく溶け込める抱擁力を持っておられました。また、我々との記念写真にも気軽に応じ、スチール写真の係の人にわざわざ写真を頼んでくれるという細かい配慮をされる方でした。
序列の厳しい社会におられる“雷蔵”でさえ、我々剣道部の規律、例えば朝夕の姿勢を正した大声での挨拶、或いは全員の食事が揃うまで箸をつけない礼儀、また先輩の道具を片付ける後輩の姿、そして、よく訓練された統一行動に「軍隊のようだね」と驚かれ、同時に興味をも抱かれ、「不満は出ませんか、落伍者は出ませんか」と熱心に質問され、我々剣道部員の全てを知ろうとされたものでした。
いかにも剣道で鍛えられている我々とはいえ、厳寒(二月二十九日)の瀬戸内海(広島福山市鞆浦ロケ)での禅、或いはパンツ一枚での水泳は骨身に応えました。大部屋の俳優の中には何とか理由を作って拒否した人もありましたが、我々剣道部員は全員「スタート」の号令一下、裂帛の気合い諸共海に飛び込みました。泳いでいる時は無我夢中でしたが、海から上がった時は心臓が止まるかと思った程でした。“雷蔵”がもし泳ぐ役柄であったなら、率先して泳がれただろうと、先日木戸師範共々“雷蔵”の人柄を忍んでいました。私達学生が些細なアドバイスをした時も“雷蔵”は、「ありがとう」と礼を言うことを忘れられませんでしたし、また、帰り際には「ありがとう、お疲れさま」と労われたものでした。澄んだ瞳、鼻筋の通った良い男っ振りには我々学生でさえ溜息が出たものでしたが、単に男っ振りが良かっただけでなく、あれだけ仕事熱心な人であり、回りの人々にも暖かい気遣いをされた人だけに、亡くなられた今も尚、偉大なスターとして人々から慕われ、惜しまれているのだと思います。
“雷蔵”との思い出は、「仕事には熱心であれ、他人(ヒト)には配慮せよ」という形で私の中に残っています。それは私に拙稿執筆を申し渡された尊敬する当社景山部長の私への教えであり、私の座右の銘である「自己には厳しく、他人(ヒト)には優しく」と共通したものであります。
撮影が完了した時、“雷蔵”から「いろいろお世話になってありがとう」とお礼に戴いたサイン入りの“トラベル・ウオッチ”は、十一年後の今も尚、私の旅の友であり、座右の銘と共に「剣」と“雷蔵”と私の思い出であります。
(塩野義製薬勤務・立命館大剣道部OB、「らいぞう」3号より)