「またかいな」太秦の夜はとっぷり暮れていた。大映京都撮影所の衣裳部屋で夜間撮影の着替えをしながら市川雷蔵がぼやく。「今度は誰やな」中村玉緒であったり、藤村志保であったり、雷蔵の結婚のうわさが立つとすぐに東京スポニチから「情報源はしっかりしてるんだ。本人に当ってくれないか」と注文がくる。そのたびに会いにくるのだから、こちらもうんざりだ。「そんなん岩さん、いちいち来んでも本人は否定しとる、言うといたらええねん」
大映時代劇のトップスターだが雷蔵ほど気取らぬスターも珍しかった。撮影所内のあちこちに出没してはしゃべり込む。製作部や企画部であったり、新聞記者のたむろする宣伝部の部屋であったりする。議論好きで、辛口の弁舌で相手をやっつけて喜んでいたりする。不勉強な記者は軽くいなしてしまい、怒らせるようなこともあった。
そんな雷蔵を呼びだして、ざっくばらんに話し合おうと太秦担当の記者連に提案したらみんな大乗り気。雷蔵も「そら面白いな」と乗ってきて、会場は川端四条上がるのすき焼き屋ときめた。会費は雷蔵も記者も平等。雷蔵は付き人も連れず一人で来るのが条件だった。日ごろ撮影所に顔を出さない記者までが出席して十七、十八人。インタビューで皮肉をかまされ、頭にきている記者もいて「今日はイッパツお見舞いしてやるぞ」と開会前から気迫がみなぎっている。
雷蔵は伝えたとおり一人でひょうひょうとやって来た。いつもの下駄履きではなかったが、相変らずノーネクタイのラフな格好である。会が始まると食べるどころか、ここぞとばかり質問の集中砲火を浴びせる。雷蔵も丁々発止とうけとめるから盛り上がること。「雷ちゃんは市川寿海さんの養子だけど、ほんとうは寿海さんが外に生ませた実子やないかといううわさなんだけど、実際はどうなんですか」という意地悪な質問が飛び出すと「そんなうわさ、僕は聞いたことがないよ」と軽くはずしてしまう。
将来は大映を背負う名プロデューサーになるだろうと言われるほど視野の広い男である。記者の辛らつな問いにも気後れせず堂々と答えていく。対話のつぼを心得たディスカッションの名手であった。この会が成功したので、他のスターたちとも同じ会を開いたが、雷蔵ほど盛り上がることは、その後一度もなかった。
岩ア健二氏は1931年京都市生まれ。京都府立朱雀高校、同志社大学卒後、スポーツニッポン大阪本社勤務。定年退職後、京都民報に「随想」と「スター交遊録」を連載。米寿の年に、小冊子「あの頃の昭和の映画スターたち 太秦交遊録」を作った。(校正が入っていないようで、ところどころに間違がありますが、ご了承ください。この小冊子を譲ってくださった方から)
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