ところが困ったことに、雷蔵君は九団次の一人息子でした。もっとも九団次の実子ではなくその親類の子で、雷蔵君のお父さんは京都の市会議長か何かを勤めたほどの名望家だったのですが、九団次がわらの上から貰い受けて、お花さんという奥さんと二人で手塩にかけて育てたので、実子以上に可愛がっていたのです。

母親のお花さんは気さくなほんとうに良く出来た人でしたが「この事だけはいくら武智先生の言いつけでもきくことは出来ません」と言って、泣いて反対したそうです。「しかし私は、全て息子の倖せを思って先生がして下さる事だからと言って、家内を叱りつけて納得させて来ましたが、可哀想でございました」と九団次が私に言った時には、さすがの私も少なからず参りました。

芝居の世界というのは不思議なところで、私がこんな思いをしてこしらえあげたお膳立てが実現の運びになった時には、いつのまにか私は、この養子縁組の話の外に置かれてしまっていました。

 

その間の事情を一番よく知っている九団次は、私を気の毒とでも思ったのか、その後も私に始終葉書を寄越して、雷蔵君の出世を喜び、私にお礼をくりかえし言って来ました。その葉書には不思議なことに、いつも「火の用心」と書き加えてあるので、家の者たちは「また九団次さんの火の用心が来た」と言って笑っていましたが、私にはその九団次の気持や、その後間もなく淋しく死んでいったお花さんの事を思いやって、やり切れない気分に襲われるのでした。

九団次は自分の子莚蔵から身分の違う寿海の子になった雷蔵君に、自分が親であることのために、肩身の狭い思いをさせないよう、随分気を使っていたようです。九団次の親戚がハワイで成功していたので、その人を頼ってハワイへ渡航してあちらで歌舞伎を教えるというような事まで、真面目に考えていたようでした。そうして最後的には渡航願いを出したのですが、その許可の下りるか下りないうちにこれまたこの世を去って行きました。

雷蔵君のような立派な俳優でさえ、家柄が無ければ出世出来ないという、歌舞伎の封建的な仕組みの生んだ悲劇といえましょう。

それにつけても雷蔵君は、今日立派な人気役者になったことは、九団次夫妻に対するこの上もない孝行であり、またこのことに幾分の責任を感じている私も、まことに心慰む思いがするのです。

どうかこの大きい犠牲を踏みしめて、雷蔵君が立派な名優になられるよう、私は心から願ってやみません。(56年3月10日発行 平凡スタアグラフ 市川雷蔵集より)