雷蔵さんごめんなさい

 もうずいぶん昔のことになりますが、私が初めて雷蔵さんとお逢いして、一番に感じたことは、俳優さんにしては珍しく本当のことをいう人だな、ということでした。

 もちろん、まだ一緒にお仕事をする以前のことで、あまりお互いに口もきかなかったのですが、この第一印象はいまも間違っていたとは思いません。

 そのように、ある意味では大変役者らしくない雷蔵さんですが、その反対に役者でない雷蔵さんというものが考えられないくらい、俳優としての職業意欲に徹していらっしゃるともいえて、私も時たま尊敬することがあります。

 お仕事の上では大変親しくしていただいていても、雷蔵さんの私生活の面はあまりよく知らないのですが、私の浅い観察では、きっとそれも、仕事のための私生活といった感じではないかと思われます。もちろん、仕事以外のことを考えの中に入れる事を避けて私生活のすべてを仕事に投入するということは、俳優としてまことに立派で、またそうあるべきだとは思いますし、雷蔵さんがまことに常識的で現在の成功をかち得られた大きな原因の一つだとは信じますが、もし雷蔵さんがもう少し人間的な弱味を私生活の面でも出されたら、いい意味での崩れのようなものが出てくるのではないかと考えられます。

 現在の仕事を愛するの余り、ともすれば視野が世間が狭くなるということは、俳優という特殊な生活で避けにくいもので、私についてもいえることですが、それだけに尚更拡げるようにしなければならないのではないでしょうか。

 などと、よく知りもしないくせに、勝手なことをいって、雷蔵ファンのみなさまから、きっとお叱りを受けると思いますがごめんなさいね。

 叱られ序にもう少しいわせていただくと、女の一人として雷蔵さんを見ると、いつも固い殻をかぶっておられる感じがします。その殻を脱いだ時の雷蔵さんってどんなかしら、きっと愛する人にだけは、バラバラになって見せられるだろうと、少なからぬ興味が湧いてくるくらいです。

 感心することは(たくさんあるのですが、ちょっとだけ申上げます)時代劇をやっていらして、絶えず新しいことを考えていられる点で、私なんかたまに時代劇に出ると、少しでも時代劇に近づこうと努力するのに、いつも雷蔵さんから逆に新しい物を教えられて、なるほどそういうことも考えられるなと、大変啓発されます。

 例えば今度の『安珍と清姫』の私の扮装についても、従来の時代劇の衣裳といえば肉体を隠すように考えられているのに、もっと肉体を見せるようにした方がいいとか、髪をもっと横に上げた方が効果的だとか、時代劇の型に捉われない新しい考え方をしていらっしゃるのが意外にも感じられ、また頭の下がる思いがします。

 とにかく、御一緒に仕事をしていると、大変シンラツなことをいわれはしますが、反面教わることが大変多い人です。最近発見したことですが、一見テレル事を知らないような雷蔵さんが、実は強度のテレ屋ではないかという気がしたことがあって御当人に聞いてみたところ、雷蔵さんは大いに我が意を得たような顔付きで「そうです、テレ屋です」と断言されました。

 して見ると、私の観察眼も案外間違っていないんじゃないかという気もしないではないのですが、みなさん、どんなものでしょうか。

『安珍と清姫』(1960年)

(よ志哉18号より)