そんな人柄の雷蔵さんを私は一度だけ怒らせたことがある。それは雷蔵さんの結婚記事を私がスクープした時のことであった。当時、私は「週刊平凡」の編集長で、その頃は結婚スクープ合戦が新聞、週刊誌をはじめとしたマスコミの間で激しい時であった。

当然のことに雷蔵さんは各社からマークされていたが、義理固いとこのある雷蔵さんは一社に独占されることのないようにと気を配ばり、ひたかくしにかくしていたのだが、花嫁になる人(現夫人)が永田社長の養女であったことから、私は筋を通して永田社長から事前発表の許可をとりつけることに成功し、やがて新郎新婦になるおふたりのインタビューを独占することが出来たのだが、この時の雷蔵さんの困惑ぶりは特ダネに勇む、私をハッとさせたくらいの響きがあった。

東京の東急ホテルの一室で永田秀雅専務と花嫁さんになるその人(現夫人)と極秘裡にお会いし、京都の雷蔵さんに電話を入れた時のことが今さらのように思い出される。

「雷蔵さん、突然ですが、ここに永田専務と花嫁さんがいます。今日まで取材を遠慮していたのですが、もう時間切れなのです。雷蔵さんの義理固いこともわかるが、とにかくこのおめでたを確認してください。永田社長の諒解もとってあります。花嫁さんを電話口に出します。永田さんも出ます。おめでとうございます。」

と、押しまくったのだから雷蔵さんの当惑が手にとるようにわかった。

「石橋君にしてやられたよ」

と、雷蔵さんは電話口で無念やるかたなしといった口調でインタビューに応じてくれたが、仕事とはいえ雷蔵さんの思惑をこわしつつある事の進行に、私はインタビューしながら私の気も重かったことを思い出す。(「市川雷蔵が遠田恭子さんと婚約」の記事は62年1月10日発行の週刊平凡に掲載されました。詳細は婚約に)

だが雷蔵さんという人は、役者の個性もさわやかなように、その性格も竹を割ったようなところがあり、ひとたびスクープ事件も終ってみれば、私と雷蔵さんの交渉は前と同じように映画を仲介としながら急逝されるまで生きていった。

その死を聞いて駈けつけた池上本門寺の告別式のおり、じつに多数の参会者の中に混じって私もそれとなく最後のお別れをしたが、祭壇上に飾られた秋山庄太郎君の撮った明るい笑顔の雷蔵さんの写真を見上げた時、私は思わずこみあげてくる涙の処置に困った。

(「人間シリーズ〔侍(さむらい)、市川雷蔵 その人と芸〕」から)