清盛礼讃で!

雷蔵 僕はね、溝口先生にすすめられて、大きなビフテキを、一日おきに食べることにしているんです。脚本に描かれているような逞しい生活力のある青年清盛になりきるために、食物としてはこれにまさるものがないんだそうです。

久我 じゃ、テキを食べると肥りますか?

雷蔵 そりゃ、肥えるのも肥えますが、それよりも身体に抵抗力が出来て、モリモリと元気がつくんですよ。だから、鎧を着たって、もう平気になれますよ。

久我 でも、胃に悪いでしょう、そんなに食べては。

雷蔵 いや、胃の方は絶対大丈夫なんです。

成年 絶対ライゾーブ。(笑声)

久我 そりゃ、私だって肥りたいとはスゴク思っているんですよ。鎧なんかは別としても、今度の映画の場合、時子の衣裳を着るというより、まるで衣裳に着られているみたいなんですもの。でも、私、胃が弱いのでね。

雷蔵 じゃ、ミンチにして食べたらよろしい、絶対おすすめしますよ。僕もこれまであまり肉食しない方だったのが、近頃では少し肉を食べないと物足りないくらいになりましたからね。

成年 肉屋に親戚があるんじゃない、雷蔵さん?(笑声)只今のスポンサーは○○牛肉店でございました、といった具合に・・・。(笑声)

久我 話は変りますけれど、「新・平家物語」が出るまで、私たちの知っていた清盛というのは、いわゆる入道清盛の印象しかなかったのですが、その清盛にも青年時代があったなんて、一寸考えてもなんだか不思議で仕方がりませんでしたわ。

成年 それは云えますね。この点を一般に認識させたのは、やはり吉川先生の功績ですよ。

雷蔵 大体「平家物語」や「源平盛衰記」に描かれている清盛入道というのは、一面いかにも横暴みたいだけれど、それだけ無邪気で人間的だったのじゃないかしら。あまりに人間的すぎたから、飾らないむき出しの感情が溢れ出て、いろんな無茶もやったのだと思われる。

成年 そうですね。僕もこの間吉川先生が撮影所へ見えた時に云ったのですが、「新・平家」を読むとあの時代の人は男でも女でも、また身分の上下を問わず、すべての人が、泣きたい時には大いに泣き、笑いたい時には大いに笑っている感じで、感情の表現が実に自然なんですね、といったら、先生は「そうなんだ。現在武士道なんていわれているものは、儒教の影響で後世になって出来たものなんだよ。当時は藤原末期で、源氏も平家も武者としてでなくまだ禁門の衛士あるいは貴族の番犬としての地位しか認めて居られず、まだ歌舞伎の肚芸のような武士道が出来ていなかったのだ。まだ、すべての人が自然でおおらかで、正直だったといえる」といったいました。だから、喜怒哀楽の表現も人前をはばからずに、心の赴くままに出したのでしょう。その意味でも、清盛という人は時代の代表的な人物の一人じゃないでしょうか。

雷蔵 僕も先生から伺ったのだけれど、大体、「平家物語」が書かれたのは、頼朝が鎌倉幕府を作ってから、すなわち平家が亡びてのからの時代なので、自然、勝利者の源氏に都合のいいように書かれている事が考えられる訳だから、清盛もその点では大損をしている。だから「平家物語」より、僕の演っている清盛の方がずっと本当に近いんだよ。

久我 それは本当でしょうね。実際、政治家としても一流の人物だったにちがいありません。和田の岬、いまの神戸港を開いて、宋(中国)との貿易を盛んにやったり、安芸の宮島を建立したり、いろいろ業績を残していますから。

成年 さきにもいったように、清盛ばかりが偉かったのではない、次郎長伝みたいだな、(笑声)時忠とか時子とかよき協力者があったから、一層光って来た訳でしょう。

雷蔵 そうだね。そんないい女房やいい弟を持っていたということは、清盛もしあわせな人だったといえますね。

久我 結局、清盛自身がいい人だったからでしょう。

雷蔵 少々暴れん坊でも、根は正直だったでしょうな。だから、地下に眠る清盛の霊も、吉川先生の「新・平家」や、その映画化された溝口先生の「新・平家」で、大いに名誉を恢復出来た訳で、その点大いに感謝しているかも知れませんね。

−ではこの辺で・・・。どうも有難うございました。どうかよいお仕事をなさいますように張り切って下さい。(1955年9月発行の近代映画「新・平家物語」特集号より)