市川雷蔵が得意としたジャンルのひとつに「股旅もの」がある。その中でいずれも傑作と評価の高い作品を撮り上げたのが、池広一夫監督。雷蔵と池広は親交も深く、二本のSP(ショートピクチャー)を経た池広の長編初監督作品にして、股旅ものの名作中の名作として過去に何度も映画化された『沓掛時次郎』(61年)は、本来、安田公義が監督することに決っていたところを、雷蔵たっての指名で池広が担当したものである。

 その池広作品から二つのタイトルが、今回DVDにラインナップされた。

 まずは62年の『中山七里』。これは『沓掛』と同じく股旅ものの大家・長谷川伸の三大名戯曲のひとつが原作だが、池広の現代的解釈により、シャープで瑞々しい作品に仕上がっている。

 雷蔵演じる木場の政吉は、木場の元締めに恋人のおしまを犯され、その仇を討って兇状持ちとなる。おしまに自害され、旅から旅の流浪の暮らしを続ける政吉は、道中で死んだおしまに瓜二つの女・おなかに出会う。おなかは許婚の徳之助が騙され作った法外な借金のカタに、やくざの情婦にさせられかかるが、寸でのところで政吉に助け出される。

 物語の後半で、政吉、おなか、徳之助の三人が、連れ添って逃げる道中が描かれるが、ここで政吉はおなかに対する恋慕の情を滲ませ、おなかもまた悪くないふうであり、これがしばしば徳之助の反発を呼ぶことになる。

 これは、それまで粋でいなせでかっこよく類型的に描かれてきた股旅ものの主人公に、心のどこかで他人の恋人を欲するという人間の弱さを持たせることで、古典的なドラマにリアリティを生み出そうとした池広の狙いである。

 そういう池広の意慾が雷蔵との共犯関係にひとつの到達を見たのが、68年の『ひとり狼』だろう。

 雷蔵が演じる主人公は、追分の伊三蔵という渡世人。親分なしの子分なしの兇状持ちで、凄まじく剣の腕が立ち、「人斬り伊三」と呼ばれる一匹狼だ。伊三蔵の持つクールな佇まいは、これまで雷蔵が演じたどの役柄とも異なる。

 従来、股旅ものとは御存知ものであり、類型的であればこそ、そのお約束の世界が愛され親しまれてきたジャンルだった。だが、雷蔵はそれを良しとせず、まったく新しいやくざものの時代劇を目指した。自ら企画を温め、内容的に地味だと渋る会社を説き伏せ、そして池広に声をかけた。このあたり、雷蔵がいかに池広を信用していたかがよく分かるエピソードである。こうして村上元三の名作小説を原作に、脚本の完成に難航しつつも、ひとりのやくざのプロフェッショナルな生きざまを描く、それまでの股旅映画とは全く趣を異とするハードボイルド時代劇の傑作が生まれた。

 雷蔵は、この企画を通すため会社に対し「絶対いいシャシンを作る。興行的にも絶対儲けるものを作る」と見得を切ったという。が、結果、興行成績では惨敗。池広曰く「当時の業界新聞に、『ひとり狼』がなぜ惨敗したのかわからんという記事が一ページ出ていた」(「市川雷蔵とその時代」徳間書店刊)とのことだが、映画の良し悪し=興行成績ではないといえ、映画を観る限り『ひとり狼』の失敗は、理解しがたいものがある。あえて挙げるなら「早すぎた」のではないだろうか。

 劇中、伊三蔵が一宿一飯の恩義を受ける一家に、孫八という筋目の通った渡世人とやくざのかっこよさにあこがれる駆け出しの若者がわらじを脱ぐ。このふたりの掛け合いの中で、食事から寝るときに至るまで渡世人の作法が事細かに描かれ、三人のキャラクターの対比の中に、渡世人社会の厳しさが焙り出される。このリアルなディテールにこだわる着眼点と、あくまでしがらみを避ける無宿渡世の厳しさにひとり身を置く、ニヒルな渡世人像の描き方は、当時においてはひときわ先進的だ。後年、同様にニヒルな渡世人を描き人気を博したテレビドラマ『木枯し紋次郎』は、この『ひとり狼』が蒔いた種が花を咲かせたようなものだろう。

 それでも雷蔵は、会社に対して半分は約束を守った。「絶対にいいシャシン」 − そう断言して差し支えない雷蔵晩年の最高傑作、それが『ひとり狼』なのである。


 市川雷蔵は、市川雷蔵以外の何者でもない存在感をもって、それぞれの役柄以外の何者でもない佇まいをスクリーンに映し出す。巧いだけでも器用なだけでもなく、ただ役に溶け込み演出に溶け込み、スクリーンに同化した雷蔵と、それを支えた大映京都のスタッフ陣の手練手管。

 『眠狂四郎』だけではない市川雷蔵と大映時代劇の魅力は、なんら色褪せることなく、DVDという銀幕ならぬ銀盤の中で、孤高の頂に旧きよき時代の栄華を咲かせ続ける。(文・宮地菊夫)

(08/10/04 時代劇マガジンVol.8より)

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